書くことは、泣くこと。母が亡くなった日のノート。
今日は、母の命日。
もう、だいぶ時間が経つ。時間が経てば、悲しみは癒えていくだろう。他人事ならば無責任にもそう思ってしまうところだけれど、実際はそんなことはない。10年前も、去年も今日も、思い出せば同じ鮮度の悲しみがやってくる。
当時、私は大学受験生だった。その年の春に母の病気が見つかり、しばらく入退院を繰り返して治療を続けていたが、最後は手の施しようもなく自宅に戻っていた。でも、大人たちは受験生である私を思いやってか、そんな病状を伝えてはくれなかった。だから、目の前で弱っていく母を見ながらも、最後は治ってまた日常が戻ってくるものだと信じて疑わなかった。
最期が近づくと寝たきりになり、意識は朦朧とし、自力で起き上がることもできなくなっていた。少し前までは洗濯物を干していたのに、もう、起きているのか、寝ているのか、見えているのかすら、分からない。そうなってもまだ、まさかそのまま逝ってしまうなんて思ってもいなかったし、ある訳もないと思っていた。死までは、薄っぺらい壁一枚かもしれないけれど、その壁はそう簡単に破れるものではないと思っていた。たった一人の母をこの世に留めておく壁が、破れるはずも、破れていいはずもないと、本気で思っていた。客観的にみれば、ただの現実逃避だったかもしれないけれど。
容体が悪くなってくると、頻繁に、祖母や伯母たちが、看病や家事の手伝いをしに来てくれていた。その日、いつものように予備校から帰り、玄関を入った私は、ちょうど奥の部屋にいた伯母と目があった。
そのときの彼女は、いつもと違う表情で、いつもと違う空気を纏っていた。それに気づかないふりをしながら、いつものように家に上がった。いつものようであってほしかった。だがその後すぐに、母の死を告げられた。壁は、いともあっけなく破れてしまった。さっきまで自分が信じていたものは、何だったんだろうか。その疑問が解けないまま、母が眠る部屋に通され、扉が後ろで静かに閉められた。
母と二人きりになった私は、それでもなお、現実を受け入れることができなかった。目の前に横たわる母を見つめることで精いっぱいで、言葉をかけることも、冷たくなった体に触れることも、できなかった。そんなことをすれば、自分がどうなるかわからなくて怖かった。この時間を、どうしていいかわからなかった。
扉のすぐ向こう側には、家族や親せきがいる。そう思うと、取り乱すことも、大声をあげることもできなかった。心配させないように、平静を保たなければいけないと、なぜかそんなことを考えていた。その日、叔母たちは、私たち家族の夕食にとお寿司の出前を注文してくれた。なんでこんな時に、と反感を抱いたけれど、その厚意を踏みにじってはいけないと、赤と黒のつやつやした丸い桶に黙って手を伸ばして、機械的に口に運び飲み込んだ。冷たくて、何の味もしなかった。
ただただ、どうしていいかわからなかった。ひとり自分の部屋に入り、勉強机に座り、右側の引き出しを開けて、小さなノートを取り出した。そして、大声で泣くかわりに、誰かに悲しみをぶつけるかわりに、ペンを握った。母に向けた、この上なく稚拙な言葉だった。こんな時に、こんな言葉しか出てこない自分に失望しながらも、書き綴った。それしか、できなかった。それが、その日、大人たちを心配させないようにと言われるがままだった私が、唯一、自分の意思で起こした行動だったように思う。おそらくは、自分のために。
その時から、書くことは、泣くことになったのかもしれない。そのことで悲しみが癒えることはなかったけれど、大きな海に投げ出されそうな自分を、何とか港に繋いでおくことができた。頼りない、ボロボロの手綱だったけれど。そこに必死にしがみついていた。
もしも、あのとき感情を抱え込まないで、そのエネルギーの塊に向き合えていれば、全然違う未来がやってきたのではないかと思うこともあるけれど。でもその時の手綱は、それからも何度も自分を救ってくれているように思う。
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当時、小さな部屋の小さな机でひとり、誰も見ることのないノートに気持ちを閉じ込めていた私は、いま、noteという開かれた場に、その日のことを綴っている。あの日、人目を気にして泣けなかった私は、いま公の場で泣いている。それが良いことなのか、迷いはあるけれど。でも、今日しかなかった。あの日がそうであったように。
明日、母のお墓参りにいく。あの日、向き合えなかった母の死に、私は少しずつ向き合えているのだろうか。
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