「何をしたいの?」に答えられない自分を責めなくていい

「やりたいことを仕事にする」ことが、理想的な働き方。そんな風潮が強まっているように思う。

私も、それを一つの道しるべとして、曲がりくねった道を歩いてきて、いま此処にいる。個人の意思や希望が尊重される。それほど有難いことはない。やりたくもないことを、意思や希望を無視して押し付けられることほど、耐え難いものはないから。

そんな場所では、当然のごとく「何をしたいの?」と聞かれることが増える。それは、意思や希望を尊重している証でもあるから有難いことなのだけれど、私はこの質問がとても苦手だ。まばゆきビジョンを語る人たちを横目に、「きたか」と身構えてしまう。頭と心が一瞬、フリーズする。それなのに、人にはよく同じ質問をしてしまう。申し訳ない。

なんで、それほど嫌なのだろう。

1つには「ないから」。本当に何にもない、わけではなくて、伝えるほどのものではない、あるいは、伝えられるほどはっきりしていない。固まる前の豆腐みたいに、掬い上げようとすると、ぼろぼろに崩れてしまう。そのくらいに輪郭が脆い。

でも一方、「何をしたくないか」は、多少手荒に扱っても壊れない木綿豆腐くらい硬かったりする。「何をしたいの?」という質問が苦手、とはっきり言えるのも、そういうことかもしれない。

恋人同士で、関係が上手くいっているときには「相手のどこが好きなのか」を聞いてもふんわりとした答えしか返ってこないのに、関係が悪くなった時に「相手のどこか嫌なのか」と聞くと、具体的に鋭利な答えが返ってくる、という話を聞いたことがある。

「何をしたくないか」がはっきりしているならば、まずは、それをしないと決める。しないと決めれば、そこに空白が生まれる。「したくないこと」を吐き切れば、次の呼吸で「したいこと」が体内に入ってくる。「何がしたいか」にはっきり答えられなくても、自然と自分が「したいこと」で満たされていく。

もう1つには、「伝わるように伝えられない」あるいは「変わってしまうかもしれない」というのもある。

伝わるように伝えるためには、輪郭を固めなければならない。でも実際、その輪郭はとても脆い。そこにいつも矛盾が生じている。わかりやすく輪郭を固めるほど、実態からは離れていく。答えることが、嘘をつくことになる。「何がしたいの?」という善意の質問に、つきたくもない嘘をつくのは、お互いにとってデメリットにしかならない。だから、答えたくない。

さらに、それは、常に変わり続けてもいる。言葉にして外気に触れさせた瞬間から、それを生んだ「したいこと」の実態は姿を変えている。それを捉え続けることができない。そこには、「したいこと」というのは、得てして頑強で屈強で、ちょっとやそっとで変わらないもの、変わらないことが良いこと、という前提があるのかもしれない。その前提に立てない者にとって、「何がしたいの?」と言う質問は、自由な心を鎖につなぐ苦しさを感じてしまうのかもしれない。


「やりたいことを仕事にする」が善しとされる時代。そうでなくても、夢を掲げてそれに向かって頑張ることは、いつだって素晴らしい。人の心を打つし、憧れの眼差しを集める。

でも、だからといって「何がしたいの?」に答えられないことで、後ろめたさを感じる必要もない。掬い取れない思いは、ちゃんとある。その存在を感じとること、輪郭のもろさを許すこと、変わり続けることを認めること。

それは、どこかから借りてきた輪郭で表面を取り繕って、自分も周りもだますこと、自由な心を固めてしまうことより、ずっと大事だと思う。吐くべきものを吐き、吸うべきものを吸う。そうやって、丁寧に呼吸を続けていくこと。

「何がしたいの?」に、ちゃんと答えられなくったっていい。自分を責めなくてもいい。たぶんこの先も、何度となくくじけそうになるだろう未来の自分に、そう伝えたい。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?