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俳句は生きる姿勢 ~俳人 仲栄司さんに聴く(1)俳句は「着眼」


「俳句は生きる姿勢」

福永耕二という俳人がいる。彼は、42年の短い生涯を、俳句ととともに駆け抜けた。冒頭の言葉は、彼の人生を描いた書「墓碑はるかなり」の中に、彼の俳句観を象徴するものとして繰り返し登場する。

俳句には、作者の生きる姿勢がそのまま映し出される。人の心を動かす俳句は、人を心を動かす生き方からしか生まれない。すなわち、俳句は人生と等価である。その覚悟で努力を重ねてきた人によって、俳句の歴史は作られてきたのだと。

この本を読み、その俳句観、そして、それを貫いた福永耕二の純粋な魂に、まず衝撃を受けました。と同時に、そこには、時を超えて運命のように福永耕二の人生と出会い、この物語を紡いでいった作者、仲栄司さん自身の俳句観、生き方が重なり、響き合うのを感じずにはいられませんでした。

ぜひ、お話を聞いてみたい。今回、幸運にもそれが実現しました。

俳人 仲栄司(なかえいじ)さん
-「田」俳句会、同人(2005年入会)
- 句集『ダリの時計』(2008年)
- 評論『墓碑はるかなり』(2018年)
- 俳人協会会員

俳句に飛び込む

ーー 栄司さん自身は、どのようなきっかけで俳句を始めたのですか?

2000年に、駐在先のフィリピンから帰国しました。常夏の国から戻り、日本の春夏秋冬はいいなと思った。それから、もともと書くことは好きで、エッセイなどは書いていました。それに比べると、俳句は短い。だから簡単だろう。それで、やってみようと思ったんです。でも、それはとんでもない間違いで、実際は果てしなく奥の深い文芸でした。

そこから5年くらい、一人で作っていました。本を読んで学んだり、賞に応募したりはしていましたが、「人に見せるなんて」という気持ちもあり句会には参加していませんでした。出張も多く、仕事が忙しかったですし。でも、そのうち「このまま続けても変わらない」と思うようになって。それから、どの本を読んでも「俳句をやるなら句会だ」と書いてあった。

そこで意を決し、2005年、結社に飛び込みました。やるなら、何のしがらみもない、まっさらな場所で、と。それで「田」(水田光雄氏主宰の俳句結社)を選んだんです。その後、「田」同人、柘植史子さんの第60回「角川俳句賞」授賞式のパーティー(2015年1月)で出会った峯尾文世さんからのお誘いでソフィア俳句会に、またそこで出会った根来久美子さんからのお誘いで上智句会(主宰 大輪靖宏氏)に、参加するようになりました。

シンガポール駐在中(2015年9月~2018年9月)も、句会にはメールで参加していました。その間、上智句会では、主宰の大輪先生はもちろんのこと、幹事の山本ふぢなさんや根来久美子さんが常にご連絡をくださるなど、皆様にはとてもお世話になりました。俳句を通じて、本当に良い方々との出会いがありましたね。それにはとても感謝をしています。その刺激や支えがあって、ここまで続けてこられました。

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俳句は「着眼」

ーー 栄司さんにとって、良い俳句とはどんなものですか

私の考えでは、俳句はこの3つの工程で成り立ちます。

1.着眼:何に感じ、着目するか
2.表現:着目したものを、どう表現するか
3.リズム:表現を、どのように五七五の調べに乗せるか

もちろん、良い俳句は、この3つが揃ったものと言えるでしょう。ただ、この中で、最も重要なのは「着眼」ではないかと私は考えています。

「着眼」は、すべての出発点で、そこに、その人の個性が宿ります。そして、その人の俳句の個性を形作っていくものです。その人の生き方が詰まっている、と言っても過言ではないかもしれません。もちろん、表現やリズムも大切ですが、最近は特に「着眼」が良いものを良い俳句と評価する傾向が、自分自身の中で強くなってきたと思います。

ーー 俳句は「着眼」が大事で、そこに、その人の「生きる姿勢」が表れるのですね。どうしたら、良い着眼を持つことができるのでしょうか。

まずは、「物事は多面体である」と捉えることが大事だと思います。ある角度から見れば赤くても、裏からみたら青いかもしれない。上から見たら、下から見たら、また別の色かもしれない。形も、匂いも、全く違うかもしれない。一つの物事には、様々な色があり、形があり、匂いなどがある。一面だけを捉えて決めつけない、ということです。

その時に大事にしたいのが、「違和感」です。みんなはこう言っている、マスコミもこう言っている、でも「待てよ」と思う気持ち。人とは違う、自分の感覚です。それにこだわり、追求して、掘り下げていくこと。

そのためには、様々な経験をして、多くの引き出しを持つことだと思います。多様な人たちと関わり、多様なものや考え方に触れ、その感度を高めていくこと。だから「生き方」と結びつくんですね。どういう生き方をしているかで「着眼」は変わってくる。

ーー 良い俳句をつくるには、良い着眼を持つような生き方をすること。そういうことでしょうか。

そうですね。それが、作者としてできることです。でも、それではまだ半分です。

俳句の場合、もう半分は読者に委ねるわけですね。読者が自分の世界に落とし込み、そこに新しい世界を広げる。作者が思ってもいなかった鑑賞をすることも珍しくありません。

福永耕二も、随想「カミュの死」(昭和35年5月号「馬酔木」掲載)の中で、「作家はその作品の中に永遠に生き続けており、読む度毎に、僕らはその中で生きている作家の魂と邂逅する」と言っています。

そういう意味では、俳句が新しい読者と出会い続ける以上、「俳句は永遠に未完成の作品」と言えるかもしれません。これ、話していていま気がつきました(笑)

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このあと、話は「俳句」の枠を超え、イノベーション、ビジネス、戦争、時間の考え方などへと、大きく広がっていきます。しかし、それらはすべて、また俳句へと戻ってゆく。そんな俳句の底知れない奥深さを、ひしひしと実感するインタビューとなりました。(つづく)


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