俳句は短いからこそ、人の心を動かすことができる ~俳人 山本ふぢなさんに聴く
俳句は、世界で最も短い文学であり、無限の宇宙でもある。一目で捉えられるほど小さいのに、全貌を掴むことは難しい。そんな不思議な世界を、そこに住む方々(俳人)の視点で旅してみる。俳人はどのように俳句を捉え、向き合っているのか。なぜ、どのように俳句を作るのか。第1回目は、俳人 山本ふぢなさんにお話を聞きました。
本名:山本公美子
経歴:作句歴19年
・第12回角川全国俳句大賞 角川文化振興財団賞(題詠部門)受賞
「地祭の竹あをあをと五月かな」
・平成27年「若葉」艸魚賞受賞(新人賞)
旅の始まり
ーーどんなきっかけで、俳句を始めたのですか?
19年前の8月、大学の先輩に誘われて母校の句会に参加しました。そこで初めて作った句で、先生お二方(※)の特選をいただいたんです。
(※)上智大学名誉教授、日本伝統俳句協会副会長の大輪靖宏先生と、「若葉」主宰の鈴木貞雄先生。
普段は、嫁や妻や母として生活している自分が、「山本公美子」という自分の名で名乗り(後に俳号を「ふぢな」とする)、表現できることに惹かれたのだと思います。それ以来、成績が良いと悦に入り、悪いと「次こそは」と巻き返しを誓ううちに、今日まで続いてきました。
(注)その時の句が「塀越しに虫取り網の二つゆく」。家の中から見えた風景をそのまま詠んだのだという。塀の向こうにいる楽しそうな子供の姿、その表情、そして二人の頭上に広がる夏の空までがありありと思い浮かぶ。
落ちている俳句を拾う
ーー普段、どのように俳句を作られているのですか?
「落ちている」俳句を拾ってスマホに入力、休憩や就寝時に推敲します。
ーーどこに落ちているんですか?!
「拾った!」と思う瞬間があるんです。ついこの前も、電車の中で。乗っていた高校生が高齢の女性に席を譲ったんです。すると、その直後に、今度はその女性が妊婦さんらしき方に席を譲った。その時に「拾った!」と感じました。そしてできた句がこれです。(角川『俳句』2020年8月号掲載)
さわやかに譲られし席また譲る
角川全国俳句大賞の受賞作「地祭の竹あをあをと五月かな」も、ごみ捨ての帰りに「拾った」んです。裏の家がなくなって、地鎮祭の竹が立っていた。「真っ青な竹だな」と思って。あ、拾った、と。そしてすぐスマホに入れる。忘れちゃうので(笑)以前は、電子レンジの上にノートを置いて書きつけていました。染みだらけのノートが9冊になりました。
「私」の俳句を求めて
ーー俳句は、次から次に拾えるのですか?
心を揺らさないと拾えないですね。普段見ている道やバスも、普段とは違うものとして見る。「あ、芙蓉が咲いている」だけではなくて、そこから亡くなった母を想像するな、とか。泣いている人がいたら「何があったんだろう」と心を寄せてみる。赤い花を見たら、「この赤はどんな赤かな。強い赤?悲しい赤?恋の色?死の色?何に似ている?」と思いを巡らせる。
反対に、心が元気じゃなかったり、疲れているとアンテナが立たなくて、発見は減りますね。
それから、俳句を始めた頃は、毎日のように何を見てもガンガンできました。でも今は、すぐに「これは月並みだな」とか「よくありそうだな」とか「ただの説明だな」とか、自分で選別してしまうので、なかなか拾いにくくなりました。
ーー逆に言うと、俳句を作るときに「月並みでない」「普通でない」ことを大事にしている、ということでしょうか。
そうですね。人と違っていること、いわば天邪鬼でいることを大事にしています。たとえば、ある季語を使おうとするとき、真っ先に「当たり前は何だろう?」と考えます。たとえば「朝顔」という季語だったら、「子供」とか「早起き」は当たり前なので外す、とか。
そういう意味でも、自分の句が、先生や玄人に選ばれることは大事だと思っています。これまで数多の句を見てこられた方にとっても、なお「他にない」「平凡じゃない」ということだから。
と同時に、高校生のような若い方や、まったく経験のない方の琴線に触れるのかも大事だと思っています。「なんか、わかる」「いいな」と思ってもらえるかどうかに関心があります。
でもやっぱり最後は、自分の作品を自分で信じること。自分を信じることですね。
ーーお話を伺って、ふぢなさんは、俳句には「自分」が投影されるという感覚を強くお持ちという印象を持ちました。
俳句の魅力の一つは、俳句に人柄が出ること、今の「私」を投影することだと思います。だから、どうしたら他とは違うオリジナルな視点を持てるのか、「私」ならではの感性で表現できるのか、それを常に探しているように思います。そういう句じゃないと選ばれないしね(笑)
そして、世間に向かって「私ここにいます、こんなことを感じています」と発信して共感を得られたら素敵だなと思います。
ーー「人と違うこと」と「共感を得ること」は、一見すると相反するようにも思えます。その二つを、どう両立させるのでしょうか?
やっぱり、季語の働きが大きいでしょうね。俳句は17音しかないので、季語の役割が大きくなります。それだけで背景がバーンとできる。そこに共有される本質的なイメージをちゃんと理解して活かしていないと、説得力が生まれないし、共通認識が生まれないですね。
季語の働きを活かしながら、自分のユニークな視点を組み合わせる。そこに、人の共感を得つつ、自分のオリジナルな世界ができあがると思うんです。
人を、楽しく丸い気持ちにさせたい
ーーふぢなさんの考える良い俳句は、どんなものですか?
やっぱり、人の心を動かすのが良い俳句だと思っています。共鳴というか、共振というか。じんわりと、悲しいとか嬉しいとか、感情が人の心に届いて動かすもの。
ーーそれが、なぜたった17音でできるのか、不思議でたまりません。
短いからでしょうね。短くて、言い尽くせないから。「あとは任せたよ」という文芸じゃないですか。散文のようにすべてを語らない。だから読み手が勝手に想像して膨らませる。それが共感を生むのだと思います。
ーー「短いのに」ではなくて「短いから」人の心を動かすんですね。目から鱗です。他に、俳句にどんな魅力を感じていますか?
たくさんありますが、人生の喜怒哀楽を第三者の視点で眺めることで、簡単に流されなくなる、ということ。これまでの両親の死や姑の介護なども、俳人として客観的に眺める自分がいたから乗り越えることができたように思います。
それから、行事や仕事、子供の成長などの大切な思い出を17音で残すと、写真より豊かに記憶できて、その時の気持ちを思い出せる日記にもなります。旅先で作った句には、その時の感動が凝縮しているから、後で読むと瞬時にその場所に戻れる気がしますね。
ーーそんな風にして、19年間を俳句とともに歩まれてきたんですね。この先は、どんな句を作っていきたいですか?
人を楽しく丸い気持ちにさせる句を作っていきたいです。
こんなに悲しいの、苦しいの、という表現よりも、大丈夫だよ、という表現。それが自分の持ち味だと思っています。どこか前向きな句の方が他の人の共感を得やすいことも、経験的にも感じています。悲しいことや辛いことがあっても、楽しくいようよ。そんな句を作っていきたいですね。
おわりに
俳句の創作活動に加えて、俳句の伝統を支える活動にも、大きく尽力されているふぢなさん。数多くの場を切り盛りしながら、独特のユーモアでその場を盛り上げてくださいます。
そして何より、人が好き。ふぢなさんの俳句は、人への関心から生まれ、また人に届いていく。人間のダメなところ、弱いところ、悲哀を受け止めながら、それをどこか可笑しみのある、くすりとした笑いに変えてしまう。そんな「『人』への愛情」に溢れたふぢなさんの句を改めて味わいながら、最初の旅を終えようと思います。
蚊の飛んでやをら空疎になる話
数へ日の青息吐息洗濯機
春の虹誰にも会はぬ日のお洒落
そぞろ寒立てばどこかで骨の音
びりりと幕切つて落として初暦
立ち話からの縁談瓜の花
(上智句会集「すわえ」第15~18号より)
まだまだ、旅は続きます。
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