坐禅と俳句 ~「いま、ここ」にある光
はじめて、オンライン座禅会に参加した。
お寺の匂い、床と座布団の感触、外のような中のような曖昧な空間、お坊さんの背筋や声、どこからか集まった名前も知らない人たち。昔は、そういうしつらえの中に身を置くことも、「坐禅」の一部だと思っていた。
でも、オンラインはオンラインで、空間は離れていても、お坊さんと自分だけ、他に何も気にすることがなく、それなりの良さがあった。
坐禅。「いま、ここ」にしかない身体と、「いま、ここ」ではない時間と空間をさまよう心。その心を「いま、ここ」にとどめ、心と身体をつなげること。
坐禅、ヨガ、マインドフルネス。いろんな言い方がされて、少しずつ作法やアプローチや考え方は違っても、心を「いま、ここ」にとどめ置く、という点ではすべて、不思議なほどに共通している。
さらに、その横軸は、俳句をも貫いている。芭蕉の言葉が、それを言い現わしているように思う。
物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし 芭蕉「三冊子」
俳句は、頭ではなく、心で詠むものである。「説明にならないように」「報告にならないように」「理屈にならないように」という具体的な教えは、すべてそのことを言っているのだと思う。頭で作ったものは、説明っぽくなり、報告っぽくなり、理屈っぽくなる。私たちがいつも使う言葉がそうであるように。このnoteも。
そして俳句は、「いま、ここ」を詠む。それは、季語とひもづく季節(春・夏・秋・冬)という大雑把にまとめられた時間ではなく、一瞬一秒ごとに変わり続ける季節。「いま」と言った瞬間に、「いま」ではなくなる、その「いま」。
それには、心が「いま、ここ」にあり続けなければならない。全身全霊で、「いま、ここ」にいなければ、『物の見えたる光』は受け取れないし、『いまだ心に消えざる中にいひとむ』ことはできない。
坐禅をする。俳句をつくる。これからも。
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