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俳句の森を歩く

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俳人への道を歩きながら、見つけたもの、出会ったものを記録しています。
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#文章

手放すことからはじめる ~「取材・執筆・推敲」読書メモ③

「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」(古賀史健著)を読んで、特に心に残った3ヵ所をメモしている。 3ヵ所目は、最初に読んだ時には印をつけておらず、再読のときに目がとまって追加した。読むタイミングが変われば、視線も心の動き方も変わる、という当たり前のことを実感した。 取材を終え、さて書こう、となった時に、はたと手が止まる。何を書けばいいのか、何から書けばいいのか。どうやって「書くこと」を決めていけばいいのか。まさに今、自分がその状況にいる。それに対する著者の答え。 ぼく

ただただ透明な自分になる ~「取材・執筆・推敲」読書メモ②

「取材・執筆・推敲  書く人の教科書」(古賀史健著)。1ヵ月前に読んだ時に付箋を貼った何ヵ所かを、読み返している。 この、付箋を貼った箇所の読み直しは、同じ時期に読んだ「三行で撃つ」(近藤康太郎著)の教えでもある。 ライターにとって、本は読みっぱなしでいいわけがない。---略--- 線を引きまくる。徹底的に汚す。---略--- とくに重要だと思った箇所は、ページを折っていく。---略--- そうして読み終わった本は、しばらく放っておく。頭を冷やす。一ヵ月もしたあと、ページ

自分だけの文章とは、自分がいない文章である ~「取材・執筆・推敲」読書メモ①

「自分にしか書けない文章」って何だろう。そんなもの本当にあるのだろうか。そんな疑念と、憧れ。 その一方で、俳句では、「自分、自分」という主張が強いと、良いものにはなりにくいと感じる。 文章と自分。俳句と自分。この関係性について、しばらく考えている。 そこに一筋の光明を与えてくれたのが「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」(古賀史健著)だった。コロナワクチンを接種した日の夜に読み始めると、発熱が追いかけてくる気配を感じながらも、その夜のうちに逃げ切って読み終えてしまった。

言葉のプロの教えには、俳句の極意が詰まっていた

岸田奈美さんのnoteは、ひとたび開封してしまうと止まらなくなる。その夜もごそごそ読み漁っていると、「突撃!岸田の文ごはん」に行き着いた。天才ライターの岸田奈美さんが、さらに言葉を学びに達人たちを突撃するというRPG的企画。その中で、達人たちから授けられる極意が、驚くほど俳句のそれと重なっていて、思わず書き記しておきたいと思った。 そもそも、なぜそれが驚きなのかというと、俳句は韻文(一定の韻律をもち、形式の整った文章)であって、散文(韻律や定型にとらわれない通常の文章)では