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不登校と、「ふつう」という意識について

どうもどうも。
秋の涼しさを感じられるようになってきたと思ったら、この長雨。天気予報図を眺めながら秋雨前線に憎しみをつのらせる今日この頃ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。僕はこの前せっかく高尾山に登ろうとしたら雨直撃しました。チッ!

さてさて、そんな秋雨とはまったく関係のない、今回のお話。

先日、Facebookを漫然と眺めておりましたときのことです。とある記事に、ふと目がとまりました。
不登校関連で親の会を運営されている方の記事だったのですが、短文ながら、その中で、自分のお子さんが「不登校」という選択をした際の、親としての心理、動揺を赤裸々に綴っておられたのです。
で、僕としては、その記事の内容に非常に感銘を受けるというか、「いや確かにこういうもんだよなあ」的な思いを強く持ったんですね。

その方の記事に書かれていた心理とは、こういうものです。
お子さんが不登校になった折に、親として、その事実をどうしても認められない。
「不登校児の親」という自己認識にどうにも抵抗感をもってしまう。それゆえ現に学校に「行かない/行けない」子どもの現実ををまっすぐに見られない……。

記事を書かれた方は、今は親の会を主催されておられるほどに、「不登校児の親」としては「ベテラン」の方です。
こうした文章を書けるほどに、当時の心情に対しても客観的な距離を持てます。

が、いま現在も、その感情を文章どころか口にすることさえできないほどに、何とも言えぬ鬱屈した心情を抱えているお母さん、お父さんが確かにいます。

少なくとも、僕は上記の文章を読んで、自分が「不登校児の親」の気持ちに対して、少しばかり鈍感な部分があるかもしれないと反省させられました。

どういうことか。
ここにも何度か書いている通り、僕自身が30数年前、一人の「不登校児」でした。
それゆえに「不登校」を選択した際の、子ども自身の混乱や不安については、遠い記憶とはいえ、少なからず想像できるつもりです。

しかし、その親については。
母親の、そして父親の気持ちについては、どうか。


「学校に行かないのも一つの選択肢」
「学校になんか行かずとも必ず幸福になれる」

それらの言葉はは本当のことです。
しかし、それを聞く当の親御さんの前で、言葉がどこかで上滑っていないか。

繰り返せば、「学校」に行かなくとも幸福な人生を、そして青春を送ることは当然可能ですし(実際、僕は人並み以上に十代、二十代のいわゆる「青春」を満喫したと思っています)、そういう意味でも、それは人生の「選択」の一つにすぎません。
何より、社会的にこうしたメッセージは今後も強く打ち出して行くべきです。それはまさしく今、苦しんでいる子どもたちやその親御さんのために必要です。

ただ、僕が「反省」したのは、今、目の前で悩み苦しんでいる親御さんにかける言葉として、それらは「励まし」の言葉にはなっても、その心に寄り添った言葉ではないように思ったのです。
いや、「励まし」も必要なんですけれども、何というか、鬱病の人に「がんばれ」と言っても無駄なのと同様に、「悩みの渦中」というか「底」にいる場合、それは本当の心の奥の奥には届かないように思ったんですよね。

いや、そもそもそんな「慰め」を与えようと思う方が傲慢だろうか。

でも、きっとそれは、親御さんだけの問題ではないはずなのです。

先ほど、遠い昔のことながら自分の記憶から不登校を選んだ「子ども」の気持ちなら少しはわかると書きました。
では、ちょうど14歳のころ、「不登校なりたて」の僕は、目の前の大人に、「学校行かないくらい問題ない! それは人生の選択肢の一つ。君の前には明るい未来がひらけているよ!」的なことを言われて救われたでしょうか。

いや、少しは救われたようにも思う。
実際、当時「不登校は本当のエリート!」的な標語の本を祖母だか母だかの本棚から引っ張り出して読んだ記憶もあるし。

でも片方の頭では、「なんや、しらこいこと言うな〜」と少し白けた気分にもなってしまったようにも思います。
これは僕がひねくれていたからだろうか?


僕はいま、ヒルネットに通っていない子どもを含め、「学校に行かない」という選択をした、「不登校なりたて」の中学生の相談にも乗っています。
皆が皆ではありませんが、やはり「不登校」という選択は、それを選ぶ年齢が上がれば上がるほど、しんどい。中学生くらいになると、けっこうしんどい。

学校で負った「傷」が深くなっているというのもありますが、年齢特有の鋭敏な自意識が、悩みを深くします。
「不登校」である自分を他人がどう思うか。こんな自分は「ふつう」じゃないんじゃないか。いやいや、これは「今」だけのことで、少し休んだら、また学校に行けるかもしれない……。
つまるところ、「不登校」である自分を「認めたくない」という意識。

それはまさしく、上記した親御さんの心情と同じものです。

そんな彼・彼女らに、僕は、「学校に行かない選択」の先にある希望について話します。
学校に行かずとも、ちゃんとした大人になっている人々の話をします。
自分のことを含め、そうした「選択」をしたからこそ得られた貴重な経験について話します。

それらが、ある程度、彼・彼女らを元気づけていると信じたい。
が、一方で彼らだって、僕の言葉をどこかで「しらこい」と感じているはずなのです。
なぜなら、そんな「希望」や「理想」は、今まさに「学校に行けてない=イケテナイ」自分の境遇、悩みや不安を解決してくれるものではないから。
「ふつうじゃない」という「イケテナイ」レッテルから自分を解放してくれるもんじゃないからです。

そう、出ました。「ふつう」
「ふつう」という言葉。その意識。認識。

学校に行かないことが、「選択」ではなく、なぜ「イケテナイ」ことと感じてしまうのか。
「不登校児の親」だと自認することがなぜできないのか。
なぜ学校に無理に行かせてしまうのか。なぜ無理に行くのか。

それが「ふつう」の「選択」ではないと思われているためなのでしょう。

この国は、と言ってしまって良いのか分かりませんが、いずれにせよ現在の日本は、本当に、この「ふつう」という感覚、同調圧力が強い場所だと思います。
学校に行くのが「ふつう」。
高校・大学に行くのが「ふつう」。
会社に就職するのが「ふつう」。
男(の子)の「ふつう」。
女(の子)の「ふつう」。

そして、「ふつう」でない人間を「差別」する。レッテルを貼る。排除する。
意識的にも無意識的にも。
悪意をもって。
ときには、もっとひどいことに、善意から。

それは教育現場で言えば、「不登校」の問題だけではありません。
人より落ち着きがなく教室をすぐ立ち歩く彼は「発達」に「しょうがい」があるとレッテルを貼られる。
時々、すっとんきょうなことを皆の前で言う個性的な彼女も同じく「発達」がデコボコゆえに「排除」される。

それこそ30年前よりはマシかもしれない。
それでも、「ふつう」でない自分を「イケナテナイ」と思わせるほどには、この国の同調志向は根強いものです。

だからこそ、「不登校は人生の選択にすぎない」というメッセージは、本当は、不登校を選んだ当の少年・少女やその親たちではなく、そんな問題は自分には関係ないと思っている「ふつう」の人たちにこそ、届けなければいけない。

ヒルネットを最初に始めた時、考えていたことがあります。
それは、「学校に行っていない子ども」と「学校に行っている子ども」の垣根をなるべく無くしたいということでした。
ヒルネットにはちょっと学校に疲れただけの子も来てほしい。
また逆に、ヒルネットの子どもたちには、僕が同じ教室で夜に「勉強」をみている個人レッスンやグループレッスンの子どもたちと自由に交わっていってほしい。
平日昼に通っているか、夜や土曜に通っているかという時間差があるだけで、同じ教室に通っているという関係意識を子どもたちの間に作りたい。
それは、ある程度、実現しているとも言えますし、まだこれからの部分でもあります。

いずれにしろ、「ふつう/ふつうでない」という二分法を超えて、それぞれを多様な個性として受け止められる感性を、少なくとも自分が関わる子どもたちには育んでほしいと思っています。

「ふつう」であることは「イケテル」ことではありません。「ふつう」でないのは「イケテナイ」ことじゃありません。
この国でそう思うのは、本当に大人だって難しい。
でも、だからこそ「ふつうじゃない」自分を責める子どもや親を、一人でも減らしたいと思う今日この頃です。

それでは、それでは。

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記事をご覧いただき、ありがとうございました。以上の記事は2020年8月に、個人ブログ「喧々録」に掲載したものを改稿・編集したものとなります。


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