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「無力」を自覚するという話

どうもどうも。
お盆も過ぎたというのに、相変わらず「熱い」日々が続いておりますが、皆さん如何お過ごしでしょうか。僕は冷たいもの飲み過ぎ食べ過ぎでいつもお腹が痛いです。

さてさて、本日のテーマ。
それは「無力」であるということについて。

これは最近、親として、また場合によっては「先生」などと呼ばれる立場にある人間として、つとに感じることなのです。

といっても、別段ネガティブな意味で言っているわけではありません。
むしろ、その自覚がなければ、親としても、「先生」としても、馬鹿な間違いをやってしまうのではないか。そんなふうに思っています。

それは、たとえばこういうことです。
子を持つ親で、自分の子どもの幸福を願わない人などいないでしょう。
もちろん、その「幸福」の形は様々なのですが。
そして、その子が小さいうちは、「私こそがこの子を守ってあげなくてはならない」、こう思うことでしょう。

これは当たり前の感情です。

しかし、その子がもう自分である程度、自分の面倒をみられる年齢になったならば。
本来ならば、徐々にその手を離していかなければならない。
しかし親というものは、自分の子に関しては、なぜだかいつまでも「頼りない」「心配だ」と思ってしまうもの。まあ、それ自体は良いのです。親心とはそういうものでしょう。

ですが、だからこそ冒頭に述べたように、その「無力さ」についても自覚的でなければならない。
つまり、心配することは当然であっても、もう僕たちは、彼や彼女の全てを「守ってあげる」ことなど出来ないのです。
ましてや、自分の思う「幸福」を子に押しつけたりしてはいけない。

「頼りないから」といって子のスケジュールを勝手に決めたりしてはいけない。
「心配だから」といって子の習い事や塾を勝手に決めてはいけない。
「まだまだ子どもだから」といって子どもが決めた進路や、そして人生の行く道に過剰に口出ししてはいけない。

いえ、口を出しても「無駄」なのです。
もはや、彼・彼女は僕たちが思うようには動いてくれません。
スケジュールは勝手にサボります。塾には行きません。
そしてもちろん、彼も、彼女も、自分自身の人生を生きはじめているのです。自分なりの「幸福」を見つけようと彼らなりの努力を始めているのです。

そして、これは「先生」なんて呼ばれる立場でも言えることなんだろうと最近、よく思います。

もちろん、「勉強」を教えること自体は、ある意味で簡単です。
受験その他のゴールがあって、そこに向かって努力する子どもに、「学力的」な補佐を行うことも、経験のある教師ならば難しいことではない。
あるいは「精神的」な補佐を行うことも、簡単ではないが、「伴走者」の役割を果たすことくらいはできるでしょう。
でも、これはあくまで「勉強」の問題です。僕が言いたいのは、そういうことではありません。

本来的に「教育」には様々な理念や目的があります。
主体的な判断のできる人間に育ってほしい。
好奇心豊かな、幅広い知見をもつ人になってほしい。
独創性に富む、柔軟な思考を身につけてほしい。

ですが、それらは、「教え」られません。

折々の機会に、たとえば何一つ自分から挑戦しようとしない子どもを見て、何らかの「説得」をすることはできるかもしれない。
人生の先輩として、「言葉」で何かを伝える努力をすることも、完全に「無駄」ではないかもしれない。

ですが、その「説得」が功を奏するときがくるとすれば、やはり彼自身が何らかの「体験」を経て、自分自身の力でそれを学んでいったときなのです。
そういうときが訪れて、初めて、「ああ、あのとき先生が言っていたのは、こういうことだったのか」となるわけです。

じゃあ、「先生」なんていらないじゃないか。
「親」が無力であるなら、何もしなくて良いの?

もちろん、そんなことはない。
僕たち「親」も「先生」も、子どもたちの「体験」の一つであり、相関的な「環境」でもあるわけです。
そうであれば、僕たち自身が子どもたちにとって「刺激的」な「環境」であるべきでしょう。
子どもを守ろうとしたり、何かを無理にさせようとするのではなく、まずは自分が「幸福」であることを目指し、自分が「おもしろい」と思うことを探求すべきです。

手前味噌な話で恐縮ですが、僕がやっているヒルネットの、フィールドワーク等のテーマ学習では、僕自身がよく知っていることをテーマにすることは殆どありません。
もちろん、子どもたちと話し合って最終決定するわけですが、それでもなるべく僕自身がよく知らないこと、僕自身が知って「おもろいなあ」と思えることをテーマにします。

そうしないと僕が面白くないからです。
僕が面白くないことは、やる気も起きません。
そして、スタッフの僕が面白くないものを、一緒にいる子ども達が面白いと思えるはずがありません。

だから、それは一見、無計画で無軌道な「学習」に見えるかもしれない。
しかし、計画的に一人の人間を「育てる」ことなどできるでしょうか?
ただ一人として同じ個性を持ってはいない子どもたちに、単一の「効果」を狙って、「主体性」を持たせたり、「好奇心豊かに」することなどできるでしょうか? できるはずがありません。

そうであれば、大人の役割は、より子どもたちが、刺激を受ける存在であろうとすること、自分自身が「おもしろい」と思える体験・環境に、子どもたちを巻き込んでいく存在であろうとすることのほかにはないと思います。
僕と対話し、僕とともに過ごし学んでいくその時間が、彼ら子どもたちにとって、より良き人生へとつながる「体験」となってくれるよう努めるしかありません。

僕の言う、「教師」や「親」が、「無力」である、とはこういう意味です。
このことに無自覚であれば、己の「教育理念」に頑迷にしがみつく愚を犯しかねません。
子どもを「自己満足」のために「コントロール」しようとばかりしてしまうかもしれない。

いや、もちろん僕だって、特に「親」としては、まったく不完全な人間です。
ここに書いたように、いつも既に子どもを「信頼」して接しているかと言われれば、反省すべき点ばかり見えてきます。
今日書いた記事は、だから自戒を込めたものでもあります。
ですが、だからこそ、今後も親として、時に「先生」などと呼ばれる大人としても、自分の「無力」さを忘れずに、常に省みるようにしたいと思っています。

それでは、それでは。

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記事をご覧くださり、ありがとうございます。以上は2019年9月に、個人ブログ「喧々録」に掲載した記事を編集・改稿したものとなります。


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