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子どもの「自主性」

どうもどうも。
いやーなかなか一つのことを続けるって大変ですよね(白目)。
このnoteの記事も、なるべく頻繁にあげようと思っていたですが、いたんですが、、、、思ってい続けたんですが、、、、いや思ってはいたんですよホントに。。。。
気がついたら、ずいぶん間が空いてしまいました。
まあ、ちょっと2ヶ月ほど、ホントに疲労のたまる日々が続いていまして、ちょっとブログその他の書き物もお休みしようと思っていたのもあるんですが、このnoteの記事ぐらいは上げてもよかたよなホンマに。

などなど、いきなり言い訳釈明ごめんなさいから始まった今回の記事。
テーマは、ズバリ「子どもさんの自主性」について。

久しぶりに書いた記事で、これまた答えが全く記事書いてる中で出そうにない問題をぶっ込んでいきます。
もっとも別にいつも答えを出そうとしてるわけじゃありませんが。

ありませんが、今回は、特にそう。
なぜなら、これは僕自身が、絶賛悩み中の問題だからなわけです。というか、なかなか答えが出せないなあと昔から思う問題だからなわけです。

いや、悩み出す前に、まず前提を書いておきましょう。

「子どもの自主性を重んじる」
これは正しい。
単なる言葉として、お題目として掲げるだけなら、21世紀現在はほとんど誰も反対しないテーゼかと思います。
いや、もちろん、これにも反対するような昭和的保守人間だっているかもしれませんが。

しかし、一歩引いて考えてみると、当たり前ですが、これはなかなか難しいテーゼなのです。

まず、「子ども」とは誰でしょう
9歳の少年でしょうか? 17歳の少女でしょうか。
そして「自主性を重んじる」というのは、どの程度のことを言っているのでしょうか? 人生の進路みたいな漠然としたことを言っているのか。それとも日々の日常の過ごし方含めた行動全てでしょうか?

ちなみに17歳の少女の人生の進路を自分で決めさせないなんてことを言い出すのは昭和的保守人間だけでしょう。だから、ここに悩みどころはない(いや、個人的にはね)。

では、9歳の少年が昼夜逆転生活を送っていて夜中ずーっとゲームなりアニメなりやりたい放題見たい放題の生活を送っていたら? それが、もしあなたのお子さんだったら?
9歳は極端な例だとしたら、12歳や13歳ならば? これならある程度ありえる話です。
皆さんが、その子の親なら、どうしますか?

18世紀の回答は実にシンプルです。
「子ども」という存在は「教育」によって知的技能や判断力、道徳性を養われる。それゆえ、人は「教育」によって「人間性を完成」させられる。逆に言えば、「教育」のない「子ども」は人間性が完成していない知的技能や実践理性の劣る存在である。
こう言ったのは、カントです。
ちょっと雑な要約かもしれませんが、おそらく「近代」の教育はこういった観念を共有していたと思われます。
つまり、実践理性や判断力の劣る「子ども」はいわば「半人前」の存在であり、自主性以前に教育による「訓練」「配慮」が必要である、と。

現今の日本の公教育システムも、こうした観念に立脚していると言って良いでしょう。
あ、でも日本の「起立、礼、前ならえ!」とかは戦前の悪しき教練的思考の残滓であり、いま現在も続いているのは狂気の沙汰です。ブラック校則? ああ、それはたぶん田舎の刑務所の話に違いありません。

一方、21世紀現在の僕たちは、全く別の答えをも持っています。
例えば、上記のカント的?教育観と正反対の教育観が、サドベリースクールの教育観でしょう。

日本だけでも様々なサドベリースクールがあり、それらのスクールの考えを一つにまとめることはできません。
が、おそらく共通しているのは、スクール(=大人)が子ども達に「学ぶべき内容」を押し付けることなく、またスクールの運営や諸ルールそのものも子ども達を中心に全員で決めていく、という特徴でしょう。

こうしたサドベリースクールの教育観は、まさに「子ども」を年齢で区別せず「自律」した存在であると捉えたものです。
子ども達を「自律した人間」であると捉えるからこそ、彼らが自主的にルールを決め、自主的に学ぶ内容も決めていくのだと考える。

サドベリースクールでなくとも、多くのフリースクールには、根本的なところで同様の教育観、「子ども観」があると考えられます。
個々のフリースクールは、それこそ多種多様な価値観で運営されているため一概に言えませんが、学ぶ内容を強制しないことであったり、ルールを子ども達の話し合いや自主性に任せているところは多いのではないでしょうか。
ちなみにヒルネットでも、子ども達が「学ぶ内容」は自由ですし、諸処の出来事・問題は最終的に子ども達を含めた話し合いで解決します。

このようにサドベリースクールをはじめとして、現在のフリースクール的な教育観の根底には、18世紀的「子ども観」とは反対に、子どもを自律した存在として遇し、その自主性、主体性を重要視する考えがあると言えるでしょう(さらに言えば、子ども達に真の自主性を持ってもらいたいがために、あえて「自律した存在」として遇しているとも言えるでしょう)。

さてさて、差し当たり正反対の二つの教育観を見たところで、最初の質問です。
では、自分の子どもがーーさしあたり12歳の少年としましょうーー例えば昼夜逆転生活を送っていて夜中の間ずーっとゲームやってたりアニメ見てたりマンガ読み続けてたり、ついでにタバコでも吸っていたりしたら?
その「自主性」を信頼できますか?

「いや、タバコはそもそも法律で禁じられているし健康に悪いから取り上げた方が良い」
「昼夜逆転していると健康に悪いし、そもそも学校に通えない」
「学校には通わなくても良いが、成長期にあまりに不健康な生活を送っていると、将来、身体的な成長未然を原因とする不調が表れるかもしれない」

教育的な「配慮」として、大人が介入してよさそうな理由はたくさん思いつけるでしょう。
しかし、12歳くらいの少年は(もちろん個々の成長は人ぞれぞれだとしても)、それなりに未来を見通した自己判断ができる年齢でもあります。上記は、その「彼」の自主的行動です。
いや、それができない年齢だ、と考えたなら、それはその時点で子どもを「自律」した存在と見なしていないとも言えます。

いや、こんな極端なケースはまれだろう。
そんなふうに考えるとしたら、大間違いで、上記のようなケースは多少話をミックスしているとはいえ、決して少なくありません。
さすがにタバコの例は今現在は、聞いたことがありませんが、過去にはあります。というか、もう時効でしょうから告白しちゃいますと、ゲーム以外の全てに、これは僕の弟の12歳の頃に当てはまります(ごめんね弟くん。君の恥部をこんなところに晒したせいで君が君の子どもに責められたら僕が謝りに行きます)。

ちなみに僕の答えは。
まず前もって言っておいたように、絶賛お悩み中です。

ヒルネットのスタッフとしては、まあ健康上推奨はしませんが、まずは見守るしかないと考えます。
まして、その少年にそのような生活を送らざるを得なくなった生活上、心理上のトラブルがあったなら、行動自体は咎めるべきではありません。
昼夜逆転にしろゲーム漬けの日々にしろ、そこを「逃げ場」とせざるをえない原因があったなら、結果としての行動を咎めるより原因を解決しようと考えるべきです。

いや、たとえそんな明示的な心理的問題がなかったとしても、無理矢理、「矯正」などすべきではない。いま文字にして思いましたが、どんなことであれ子どもの行動を大人が、親が、無理矢理押さえつけようとすることに、僕個人には強い抵抗感があります

今、僕個人と書きましたが、だいたい僕自身、12歳ではさすがにありませんでしたが、不登校になった10代前半は自堕落の極みと言ってよい生活をしていました。。。14、5歳の頃は、もちろん昼夜逆転。ゲーム漬けではありませんでしたが、明け方までマンガ読んだりテレビ見たり。およそ生産的でない毎日。
どの口が「昼夜逆転は健康に良くないよ」などと言えるのか。
(いや、おかげで40代的に健康を害しやすくなっているのも知ってるので、「その口」ではアドバイスしますが)

ちょっと脱線しました。
いずれにしろ、ヒルネットで種々のご相談を受け、また少なくない子ども達の身を預かる者としては。
やはり、なるべく子ども達を「信頼」したいその自主性を大切にしたい

もちろん、状況について話し合うのは良いでしょう。親として、大人として意見を言うのも良い。
でも、あくまで対等に。子ども達を一人の自律した個人として遇した上で、「話し合う」べきでしょう。
何となれば、最終的には、昼夜逆転してたってゲーム漬けになってたって、それはその子の人生です。

逆に言えば、必ず、その子自身が、自分の人生にとっての「最適解」を見つけます。
ゲーム漬けの生活がいつか良くないと自分で思えば、自分で違うことに目を向け始めます。昼夜逆転だって直します。信頼するとは、そういうことです。
実際、いまこうやって書いている僕の頭には、かつて「ゲーム漬け」だったり「昼夜逆転」していたりしながら、いまや立派に自分の道を歩もうとしている青年達のことが何人も浮かんできます。

だから、僕は子ども達の自主性を「信頼」したいといつも思っています。
ヒルネットのスタッフとしてはもちろん、二人の子どもの親としても。


親としても? 本当に?
はい、こっからぶっちゃけ正直トークです。
上記の心構えで終わっていたら、何も絶賛お悩み中とは書きません。

理念を持つことは大切だし、まずは上記の心構えを持ちことが必要です。それは前提。
しかし、そんな理念を僕は自分の子どもに対して、ちゃんと実践できているだろうか?

明示的にあーしろこーしろなどと言っていなくとも、言外に「自分の思う理想」みたいなものを娘に押し付けていないか?
長々とアニメを見ている7歳の息子に不快な表情で「テレビ見過ぎじゃない?」と言ってないか?
そもそも「唯我独尊」的な僕の性格は、子ども達から自主性を奪っていやしないだろうか?

そう。
実は問題は、「昼夜逆転したゲーム漬けの12歳少年」のような、一般的に考えて色々と問題があるかのように見える「ケース」ではないんです。
そういう「ケース」の場合は、むしろ逆に親御さんも、覚悟を決めて「今は見守るべき時期」と思えるかもしれない。

問題は、もっと生活上の瑣末なことです。
例えば、「自由に物事を考えられる主体的な人間になってほしい」と理想を語る反面で、子どもに過剰な「勉強」を押し付けていないか。
それこそ「ゲームの時間」を制限するのは「当たり前」だと思っていないでしょうか?

いや、ゲームの時間を制限することが、「悪いこと」なのではありません。
ただ、「子どもの自主性を重んじたい」と思っているにも関わらず、ゲームの時間については親が勝手にルールを作ってしまえば、それは矛盾だよね、という話です。
そして、僕自身、そういう矛盾を犯してしまいがちなのではないだろうか。

さらに言えば、日常の瑣末な出来事の中で、そうした「矛盾」を矛盾と意識しないままでいれば、まさしく自分の子どもが「昼夜逆転したゲーム漬けの12歳少年」のようなケースと同様な状態となった際、本当に子どもを「信頼」し続ける態度、心構えを維持していられるだろうか。
結局、「見守る」などと言いながら、中途半端に「上から」叱るような愚を犯してしまうのではないか。


絶賛悩み中というのは、こういった意味からです。
ですから、今回は本当に答えも解決もありません。
僕自身が、二つの方向に引き裂かれているような感じもしちゃいます。

ヒルネットで何人もの子どもや親御さんと接している僕と。
「一回限り」の子育てを永遠の初心者として行っている「親」である僕と。

悩みは尽きません。
皆さんは、そんなことを考えたりはしませんかね?

きっと「正解」はないんだと思いますが、いつの間にか色々な子ども達と関わる人生を歩むようになってしまった者の責任として、僕はこれからも「子どもの自主性」については悩み考えていきたいと思っています。

それでは、それでは。

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記事をご覧いただき、ありがとうございました。以上は2021年7月に、個人ブログ「喧々録」に掲載した文章を編集・改稿したものとなります。

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