見出し画像

「学び」には「体験」が必要という話

どうも、どうも。
初めまして。こんにちは。今田と申します。

今回、このnoteに初めて記事を投稿します。っということで、果たして何を書くべきか?
いろいろ考えましたが、って実は全然考えなかったんですが、やっぱり最初の記事は自己紹介。
自分が一体何者かってことを書くべきでしょう、と。

僕は現在、46歳。男性。既婚者。子どもは二人で娘と息子。
そんでもってお仕事は? ご趣味は?
仕事でもあり、ある意味楽しんでやってることなんですが、僕は今、「ヒルネット」という団体の代表をやっています。
って、そのヒルネットって何やねん?

正式名称は、「自由な学び場HIRU-net」と言います。
いわゆる少人数のフリースクールです。
さらに言うなれば、ちょこっと学校が「しんどく」なった子どもや、その集団志向からはみ出しちゃったような子どもが、ぶらりと立ち寄れる「居場所」。
ヒルネットは、そんな、まさしく「自由な」場所です。

実は、僕自身がはるか昔、30数年前、中学校を勝手に「卒業」しちゃった、いわゆる「不登校児」でした。
また、実はヒルネットを始める以前から、僕はV-net教育相談事務所というところで、長く個人レッスンの「先生」として諸々の子どもたちと関わってきました(今も個人レッスンは同様に行っています)。

こうした自分自身の経験、そして現在の様々な子どもたちと関わる過程で、どうしても必要だと思った、子どもたちの「居場所」。
子どもたちが、自由にぶらりと立ち寄れ、誰かとたわいもないお喋りに興じたり、一緒に遊んだり、あるいは共に学んだりすることのできる「場」。
そんな「自由な学び場」を作りたいという思いから立ち上げられたのが、このヒルネットの活動でした。


ヒルネットが、もっとも大切にしている理念。
それは「体験」を大事にするということです。

現実の様々な場所に出かけて行って、直接いろいろな「体験」をすること。
「お出かけ探検活動」と呼んでいますが、週に一回は教室を出て、知らない街を歩き、興味深い展示を行う博物館に出かける。山や川や海に出かけ、自然を直接観察する。いわゆるフィールドワークです。
教室での活動の日も、お昼の時間には、必ず「散歩」と称して、30分程度歩く。歩いて自然環境豊かな公園に行って昼食をとる。

これら屋外への「散歩」やフィールドワークといった活動により、子どもたちが「ナマ」の自然環境や都市環境と触れあうこと。それがヒルネットの一番大切な理念です。

いわゆる「勉強」は、いまやオンラインでも可能です。YouTubeでも可能です。
しかし、こうした「体験」は、当たり前ですが、ネットの中ではできません。焚き火の炎のぬくもりも、山を登るしんどさも、川の水の意外な冷たさもネットの画面越しには伝わりません。

だから、昨年のいわゆる「自粛期間」は結構かなり辛かった。
それこそオンラインで、メンバーの皆とはある程度、教室活動の延長にあるようなことをしながら繋がってはいたのですが。やはりそれは本来の活動には遠かった。
まあ、ある意味で「貴重」で「奇妙」な体験とは言えたのですが。

だからこそ、自粛が解け、再び教室で子どもたちと会えた時はとても嬉しかった。
再び山に、川に、様々な街に、子どもたちと一緒に「お出かけ探検」できるようになって、こんなに楽しいことはないと思った。

ヒルネットの理念としてナマの「体験」。
しかし、それが本当に大切な理念であると真に実感したのは、再び種々の「体験」を子どもたちと共に行えるようになった、この時だったのかもしれません。

自粛期間中、リモートで子どもたちと接していたとき、気づいたことがあります。
それは、子どもたち同士でのトラブルが極端に少ないことでした。もちろん時間が短かったから、ということもあります。
しかし、ネットのなかでは(たとえそれがzoomのように顔が見えるものであっても)、「誰か」が不快な行動をとったとしても、いともたやすく無視できるのです。シャットダウンしてしまうことができる。

現実に再び教室に集ってしまうと、そうはいきません。
歳の近い子ども同士は、つまらないことで言い合いを始めます。ケンカになることだってあります。
それを年長の子どもたちが鬱陶しく思うこともあるでしょう。
突然誰かが何かにイライラして大声をあげます。
「散歩」に出かけると急に走り出す子がいます。それを追いかける子も。
誰かがそれらを諌めるとそれはそれでケンカになったり。すると年長組はまたヤレヤレといった顔。

こうしたトラブルは「面倒」なことです。
しかし、実際に人と人が出会うということは、いつも既にこうした「面倒」な出来事と隣り合わせな「体験」なのです。
そう、極言すれば、ナマの「体験」というのは、すべからく「面倒」なものなのです。

山に出かけようと思ったら、雨が降る。
川遊びに出かけたら、水にドボン。着替えがない。
街歩きを行えば道に迷い、何キロも歩くはめに陥る。

この「面倒」な出来事、ということを、「偶然性」という言葉を用いて表現してもいい。
物事が決まった通りに動かないこと。自分が思っていたのとはまるで違う結果が生じてしまうこと。現実の世界はそうした「偶然性」に満ちあふれています。
現実の世界のなかで生きていこうとするなら、そうした「偶然」の出来事は回避できない。
それにより引き起こされたことが、どんな「面倒」なことであっても。

僕が教育においてナマの「体験」が大切であると考えるようになったのは、そうした現実の「偶然性」をまさに身をもって知る、「学ぶ」ことが、子どもたちが成長するなかで何より重要ではないかと感じるようになったからでした。
「偶然」に引き越される失敗。数々のアクシデント。
それらをまさしく「体験」していくなかで、僕たちは大人になるために必要な「知恵」を蓄えていくのではないでしょうか。

もちろん「体験」に宿る「偶然性」は、面倒ごとだけを引き寄せるわけではありません。
思わぬ出会いが新たな好奇心の源になることだってあります。
川で溺れそうになることもあるけれど、その水の冷たさが夏の日に喜びを与えてくれることもあります。

繰り返すなら、ナマの「体験」とは面倒なものです。
ですが、その面倒なことが僕らを成長させ、また僕らに歓びをも与えてくれるのです。

ネットの効率的なコミュニケーションの中に、こうした「偶然」は多く生じません。
「面倒」なことも起こらないが、新たな歓びを与えてくれる「出会い」も多くはありません。

ひょっとしたら、僕は当たり前のことを言っているのかもしれませんね。
なぜなら、僕が実感した上記のようなことは、昨年、自由な行動や他者との接触を制限された、日本中の、いや世界中の人々が感じたに違いないことだからです。
仕事はリモートだってできる。カリキュラムのある「勉強」はネットのなかでもできる。

でも、それとは違う、人と人とが対面して出会う「体験」が人間には必要だ。
自然に触れ、自由に街を歩けるようになることが僕たちには必要だ。

そして何より、子どもたちにこそ、そうした「体験」が必要に違いない。
何が起こるかわからないナマの世界を「体験」することこそが必要なのです。

それでは、それでは。
さて、一通りの自己紹介にはなったかな?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
記事をご覧いただき、ありがとうございます。以上の記事は、2020年12月30日に僕の個人ブログ「喧々録」に掲載した文章を改稿・編集したものとなります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?