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「暴」についての話

どうもどうも。
さて今回はいきなりテーマから。
今回のお題。それは「暴」について。

「暴」? それって何って感じですよね。
実は依然、僕が運営するフリースクール「ヒルネット」で、この「暴」にまつわるミーティングをメンバーと行いました。

「暴」とは、暴力の「暴」であり、暴言の「暴」であり、あるいは単に「暴れる」ことの「暴」でもある。

ヒルネットに限らず、僕は、個人レッスンやグループレッスン、果ては大昔の予備校講師時代含めると、なんやかんやでもう20年近く在野で教師的な何かを仕事としてきました。
それこそ小学生のころ知り合って、今やすっかりオッサンになってしまった生徒だって何人もいます。

その中には、勿論いろんな子どもがいました。
そして今もやっぱり、いろんな子どもたちがいます。

そうした「いろんな」傾向の中に、「暴」言を吐いてしまったり「暴」力的になってしまったり、いろいろな意味で「暴」れてしまう子だっている。
また、逆に一緒に過ごしていて、そういう「暴」の空気を敏感に感じ取り、心をざらつかせてしまう子だっています。

ヒルネットという「居場所」は、別に皆が「仲良く」する必要はないけれども、誰もが安心して過ごせる場所ではあってほしいと僕は思っています。
そういう意味では「暴」力的な言動で傷ついてしまう人がいるならば、それはなるべく抑制してもらいたい。

だけど、ね。
これが難しいのは、誰だって好きで「暴」力をふるいたいわけじゃないってことです。

いや、大人だったり大人に近い年齢の子どもたちはそうじゃないかもしれない。
でも、まだ比較的、小さい子どもたちは、どうか。
いや「小さい」と形容するには歳を重ねているにせよ、十分に成熟しきっていない少年少女にとっては、どうか。

その「暴」は、彼・彼女の一種の「表現」であるかもしれないのです。
そう、「言葉」ではまだ十分に「表現」できないがゆえの何かしらの感情の。

極端に言って、それは「愛情」なのかもしれない。

例えば、ヒルネットのミーティングでは、一人の少年がこんなことを言っていました。
「僕は本当にMやNのことが大好きなんだ。でも、好きって気持ちが強くなっちゃうと、ついちょっと叩いたりしちゃうんだ」

とても印象に残る言葉でした。それはまた、彼自身が、自分でそう客観的に判っていながらも、なかなか留めることができない苦しさが滲む言葉でした。

他にも、大好きなスタッフにまとわりついて離れず、にもかかわらずずっと「悪言」を言いっぱなしの子どももいます。また、これは別の場ですが、好きな先生のいうことほど聞かず、また好きな子には意地悪ばかりしてしまう子もいました。

繰り返すなら、これは一種の「表現」なのです。
さらに難しくいうなら、それは自己の存在を他者から全的に承認されたいという欲求の裏返しでもあるのでしょう。
簡単に言えば、「甘えたい」のです。

ですから、こうした「暴」の抑制を個々に言葉で求めることはできても、「禁止」することはできません。いや言葉で「禁止」とは言えても、それを「排除」することは決してやってはいけません。

とはいえ、一方で、誰かのその「暴」により傷つく人間も確かに存在する。
いや、当事者はもちろん、そういう空気の「乱れ」を敏感に感じて、気分を落ち込ませる人だっている。

では、どうすればいいのか?

もちろん、いつものことながら、簡単な解決なんてありません。
でも、例えば、子どもたちからはこんな意見が出ました。

ーー誰かが暴れだしちゃったりケンカになっちゃたりしたとき、結局どうすればいいだろう?
「そのときは、スーッと別の場所に行っちゃおうかな」
「関係ないよって顔しとこう。だってそれは、その子とその子のモメ事だから、本当ならその子たち自身で解決しなくちゃいけない問題だから」
ーーでも、誰かが暴れていると、みんな嫌な気分になっちゃうことない?
「別に。僕は無関係だもん」
ーーでも、無関係だって思えない人だっているんじゃない?
「まあ余裕のあるときは、暴れちゃってる子に、『落ち着けよ』って声ぐらいかけてあげるかな」
「いま『暴走』しちゃってるよって肩をトントン叩いてもらえるといいかもね」
「肩トントンはいいね。それで『暴走』してるよって合図になる」
「それなら、『どうどう、落ち着けよ』って言ってあげた方がいいんじゃない」
「なんにせよ、声ぐらいはかけてあげていいかも。もっと余裕があれが、その場から引き離してあげられたらいいよね」
ーーでも、みんなにそういう余裕がないときはどうする?
「そんときはイマンモかレイセンが『イケニエ』になるしかないでしょ当たり前じゃん!」

実際、いつもいつも皆に「余裕」があるわけではないでしょう。
むしろ、そんなときは多くなく、僕や他のスタッフが「イケニエ」になることの方が多いかもしれません。
でも、「暴」をふるってしまう子も、それが嫌な子も、一人ひとりが、それぞれの「解決」を考える。そのこと自体に意味があるんだろうとも思います。
そんなことを考えさせられた、いや子どもたちに教えられらミーティングでした。

それでは、それでは。

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以上は、2020年10月に僕の個人ブログ「喧々録」に掲載した文章を、編集・改稿したものとなります。


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