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学びて時に之を習ふ

どうもどうも。
もはや完全に夏本番ということでモー烈な暑さに熱中症まったなしかと思いきや、意外とフツーに過ごしているイマンモです。あれ? けっこう身体頑丈になってる?(などと書いていると、さっきから原因不明の腹痛に襲われてるので、やはり油断は禁物)

ともあれ、比較的のんびりと過ごしているここ数日。
ヒルネットの活動も、春夏学期が7月最終週からは夏休みに入りました(春夏学期の活動おさめについては、こちらの「活動記録」をどうぞ。楽しくも少し切ない活動おさめとなりました)。

とはいえ。ヒルネット年長メンバーとの「学習クラス」は夏休み中も継続。
何より、個人レッスンについては、いつも通り、いや普段以上にやってます。あ、そうそう。普段以上といえば、夏季休暇中は個人レッスンの「一見さん」用に期間限定の特別レッスンも行ってます(国語レッスンとか作文レッスンとか)。よろしければ、どうぞ。

などと、個人レッスンの宣伝もしつつ。

しかし、なんでしょうか。僕もこの「教師」というべきか、子どもたち専用「サンドバック」というべきか。「なんか知らんけど、子ども相手によう喋る教えたがりのオッサン」とでもいうべき「仕事」を始めて、もう大体20年にもなるわけです。

当初は、「受験用」に小論文なんかを教えておった。
それが国語全般に広がっていき、やがて社会なんかも教え始め、それが文系全般に広がっていき。
最近では、英語や算数・数学なんかも教えておる。

こんなこと言うと、なんですが、本当は僕は大学なんかでモノを教える予定だったんですよね。
非常勤講師もやってましたし、それもあって30過ぎまで大学に籍を置いていました。

でも、最近はつくづく、大学なんかで自分の専門だけを教えるよりも、「子ども相手によう喋る教えたがりのオッサン」の方が、きっと自分には向いてたんだろうなあと思うようになりました。
五十にして天命を知る。
などと言いますが、実際、今の僕は子どもたちを相手にしているのが、楽しい。実に楽しい。
子どもたちと一緒に小説や論説を読むのが楽しい。
子どもたちと算数の問題を解くのが楽しい。
子どもたちが「あ、そういうことだったんだ!」と何かに気づいてくれた時の顔。そんな様子を眺められるのは特権だと思う。

彼らの悩みを共有し、彼らの喜びを一緒に喜び、彼らの怒りを受け止める。

何より、子どもたちに「何かを教える」という行為は、一方向的なモノじゃないんですよね。
子どもたちに「教える」ことで、自分もまた何事かを「学ぶ」。

判りやすいことでも、子どもたちと向き合うなかで、古文を読む愉しみを知り、和歌や漢詩を創る面白さに気付かされました。また最近は、数学の論理的奥深さを学んでいます。
現今の社会事象や、古典哲学を解説しようとして、ふとした子どもの質問に、むしろ新たな「気づき」を与えられる。
子どもたちに「教える」ことで、むしろ「新鮮な学び」を得られているのは、こちらの方かもしれません。

しかし、何よりも彼・彼女らが僕に「教えて」くれたこと。
それは、なかなか言葉にするのが難しいのですが、人間の「成長」とは何か、あるいは大仰にいえば「人生」とはどんなものなのか、ということなんじゃないかと思います。

幸福なことに、個人レッスンの子どもたち、そしてヒルネットのメンバーの子どもたちは、その学童期・思春期という人生の大切な時期の時間を、少なからず僕と過ごしてくれています。
小学生だったヒルネットの最初期のメンバーは、今や「中三」の年齢となっています。
個人レッスンの子どもに至っては、小学校低学年から「教え」始め、今や「大人」と呼ばれる年齢になっている子もいます。

それぞれの年齢での彼・彼女らの「成長」を見ることは、まるで僕自身が人生を生き直しているような気持ちにさせられます。

だが、当たり前ながら、その「人生」は僕の人生とは全く違う。

一人ひとりの「成長」の仕方も、「人生」も、それぞれ全く異なる。

その「成長」の過程で、彼らの洩らす悩み、不安。怒りや哀しみ。
それに向き合う時。アドバイスを求められる時。
当然ながら、僕に「正解」を答えられるわけがありません。必死に自分の経験の中から、何らかの「言葉」を見つけ話しますが、それが彼・彼女の「人生の正解」なわけがない。いや、そもそも誰にとっても「正解」などない問題です。僕にとって「大学で働く」が決して「正解」ではなかったように。

しかし、個人レッスンという形で、ヒルネットという場所で、ともに時を過ごし、対話するなかで、彼・彼女は、僕のかけた「言葉」などとは無関係に、自然に、「成長」していきます。
いや、時に僕の発したらしき「言葉」が思わぬ形で、彼・彼女らの心に響き、何らかの影響を与えることもないわけではありません。
とりわけ最近、「成長」し「大人」となった元子どもたちから、そうしたことを言われることが多い。しかし、そんな時は逆に、僕の方がそれらの「言葉」を発した記憶を全く持っていないのです。おそらくは、こちらは何も考えず、無自覚に発した「言葉」だったのでしょう。

そう。
「子ども」たちは、このように「教師」「大人」といった存在が意図したこととは、全く無関係に「成長」し自分たちなりの「人生」を見つける。

そうした場面に幾度となく立ち会うこと。
それは、かえって僕自身に、自分の人生を見つめ返させます。
そして、何より人生というものが本当に人それぞれ、いろいろな「カタチ」をしていることに、あらためて気づかせてくれます。

十人十色。多様性。

「言葉」としてはありふれたものです。
しかし、そうした観念としてでなく、実感をともなった「体験」として、そういうことが「わかる」というのは本当は貴重なことではないか。僕は最近そんなふうに感じることが多い。
そして、それこそが、僕が今この瞬間も子どもたちから「学んで」いる大切なことなのだと思っています。

最近は、オジサンの早期リタイアが話題です。
株やら何やらで稼いで、50代後半ぐらいに仕事をリタイアする。それも良いと思います。

でも、僕はそうはしたくない。
できれば、アタマや身体がちゃんと作動している間は、子どもたちと向き合う「仕事」を続けていたいと思っています。
「教え」そして「学ぶ」ことを続けたいなと思います。心の底から、本当に。

それでは、それでは。


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子どもに教えられたこと

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