外国語学習者を、確立した人格として扱うこと

このようなことはすでに古い議論なのだと思いますが、外国語学習者の会話能力と、その学習者のその他のさまざまな能力は、比例するわけではありません。学習者が最初、日本語をうまく話せないからといって、では、その学習者が、何も知らない、人間としても成長していない、なんてことは、ありえません。

私はこれまで、自分が教え始めるまでの長い間は、外国の大学における日本語教育の場を傍観者として見ていただけなのですが、このことがずっと気になっていました。

私が接するような学生は、その多くは、その国のエリート大学の学生で、大学を卒業すれば、その国の政府に入ったり、大学の先生になったりするような人たちです。私がその国で珍しい日本人だということだけで、それらの学生から敬意を持って接してもらうこともあるわけですが、もし私が日本で生活をしていたとすれば、霞が関の官僚の方から、あるいは東大の先生から、そんな扱いをうけることは、ありえないわけです(この先の人生がまだあるので、可能性ゼロではありませんが・・・)。

ですので、私は今、自分が教えるときには、学生に対して、できるだけ敬意を持って接しようと思っています。もちろん、ゆっくり話したり、分かりやすく話したりすることが必要な場面もありますが。また、現地の日本語の先生たちに対しても同様です。この先生たちって、日本で言ったら、東京外大の何かの言語の専攻で、その世代で1番優秀だった人ってことだよなと思って、そんな語学能力を持ち合わせていない自分は、現地の先生たちと話していて、いつも、穴があったら入りたい気分になってしまいます。

それゆえ、直接法の教え方にも、抵抗があります。ある国の優秀な学生たちが集っている場所で、ゼスチャーゲームのような授業をしていていいのかしらと(いや、本物の直接法って、そんなものじゃないです、って言われそうですが。私が物を知らないだけなら、すみません)。彼らを大学生として、大人として、扱う授業が必要なんじゃないかなと思います。それはどんな授業かと言われると、正解を出せないのですが、彼らにはすでに立派な思考能力が備わっているのですから、もっと理詰めで教えて良いように思います。

とはいえ、自分がこれまで外国で外国語を勉強したとき(ロシア語とモンゴル語)は、やっぱり直接法でした。だって、現地の先生は、日本語が分からないのですからね。でも、ロシア語は大学の第2外国語でやっていましたし、モンゴル語も自分で自習して、文法はひと通りみていましたので、授業が直接法だっただけで、自分の学習法としては間接法+直接法だったと思います。じゃあ、その結果、お前の語学能力はどうなのだ、と言われると、答えに窮するのですが・・・。


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