本当の気持ちを見つけたいのなら誰かのでなく自分の言葉で

「本当の気持ちを出すのを抑えているのかもしれませんね」
二年前のカウンセリング初日にカウンセラーから言われた。ピンとこなかった。どちらかというと感情的に生きている人間だと思っていた。好き嫌いもはっきりしていたし常に怒っていたから。

やっとわかった! やっと気づけた! 過去のブログを読み返してみるとそんな言葉が頻出する。「私はここから変わるのだ」という宣言なのだろう。今だからわかるのだけれどもまだその時は本当のところはわかっていなかった。気づけてなかった。だからどこか上滑りをしていた。

無職のまま50歳を過ぎ一日でも早く人への恐怖を乗り越えて社会に出ていかなくては手遅れになる。いや最早手遅れなのでないか。わかった、気づいた、と訴える言葉は少しでも早く心の傷を乗り越えて先の見えない日々を終わりにしたいと焦る気持ちのあらわれだ。本当に苦しかったんだなと我がことながら思う。

三年ほど前に精神科医の高橋和巳氏の本を初めて読んだ。そのなかで紹介されている被虐待者の気持ちに自分の気持ちが重なった。もしかして私も虐待を受けて育ったのではないかと疑問を持った。真相を確かめるため私は高橋医師に師事するカウンセラーを探しカウンセリングの予約をした。

本の中で虐待の中心的加害者として登場するのは母親だった。カウンセリングの初日を迎えるにあたり私は虐待の加害者を父親に設定していた。父から受けた虐待であろうと思われる仕打ちの数々を一気呵成にカウンセラーに語った。

「お父さんからの被害は二次的なものです。原因はお母さんにあると思います」
私の訴えをひと通り聞き終えたカウンセラーの言葉に驚く一方でやっぱりかとの思いもあった。高橋医師の本を何度か読み返していた私は父より母の方がおかしい可能性もないわけではないと心のどこかで思っていた。ただそれは認めたくはなかった。「これからオセロのように記憶がどんどんひっくり返っていきますよ」カウンセラーは最後に付け加えた。

私の受けた虐待は心理的ネグレクトとよばれるものだ。人の気持ちを理解できない母に育てられたため愛着形成がなされぬままに大人になった。人と信頼関係が築けない。言語化されていない社会の暗黙の了解がわからない。だから社会の中で孤立する。とにかく人が怖い。不安しかなく常に緊張している。

母しか頼る人はおらず泣くことでしか意思表示のできない非力な赤子がどんなに泣いて訴えても母なる人は赤子の気持ちを理解せず的はずれな対応ばかりを繰り返す。赤子にとっては恐怖でしかない。気持ちを汲んでもらえなくてもせめて抱きしめてもらえたなら母の温かさに救われていたかもしれないが人の気持ちを理解できない母は泣く子を眺めているばかり。

虐待には身体的・心理的・性的虐待とネグレクトがある。その全ての虐待の裏には必ず心理的ネグレクトが潜んでいる。

虐待で子どもが亡くなるニュースを耳にすると多くの人は犯人に憤る。我が子の命を暴力によって奪う親がいるなんて信じられないと。私は知っている。子どもの痛みが理解できない親はいるのだ。子どもの痛みがわかる親のもとでは虐待は起こり得ない。

虐待が厄介なのは子どもからすると虐待してくる母を悪い人だと思えないところだ。子どもにとって母は唯一無二の存在で子どもは母に頼らなければ生きていけない。母にどれだけ辛い仕打ちをされても、「お母さんが私を叱るのは私が悪い子だからだ」「お母さんはほんとは優しい人なんだ」と自分に言い聞かせながら虐待に耐える。

大嫌いなはずなのに大好きだと思わなくてはならない。母に対して抱くこのアンビバレントな感情はあらゆる他人に対して接する際の雛形となる。だから虐待を受けてきた人間は人に媚びるような態度を取る。もしくは恐れていないといわんばかりに威圧的になる。根底には不安と恐れがあるから誰に対しても被害者意識を持つ。

今となれば母から受けてきた仕打ちが虐待であったと確信している。しかし高橋医師の本を初めて読んだ三年前の49歳のときには「もしかして自分も虐待を?」と半信半疑だった。「まさかそれはないだろ」という気持ちの方が強かった。母は優しい人だと信じ込んでいたから。

それくらい自分自身を客観的に見るのは困難なのだ。49年かけても自分だけの力では気付けなかった。二度目のうつ病になったときも高橋医師の本に出会っていなければ未だに気づけていなかっただろう。気づけないままの自分と今を想像するとゾッとする。

辛いのは気づけてからもまた長いのだ。優しい母という思い込みはそう簡単には変えられなかった。カウンセリングを受けつつも、「とはいうものの母は私を愛してくれていたはずだ。なぜなら……」と母が私の理解者であったという証拠を探そうしてしまう。

私の場合は殴る蹴るという肉体的な暴力を受けたわけではないから余計に優しい母という幻想が消えなかったのかもしれない。(身体的暴力を受けた被虐待者であっても「自分が悪い子だから殴られた」「躾をされた」と考え母を擁護するらしい。虐待とは本当に根深い)

私が自分の心としっかり向き合えるようになってきたのを実感しはじめたのはほんの一ヶ月前くらいからだ。とてもシンプルな二つの本音に気づけたのがきっかけだった。

一つは母は優しい母だったのではなく私が優しい母だと思い込もうとしていただけだったというもの。そう思い込まなければ生きていけなかったから。子どもにとって母は自分自身であり世界の全てだ。自分と自分が存在する世界を否定してしまっては生きていけない。

本音の二つ目は私は母から愛されたかった、抱きしめられたかったというものだ。この本音にたどり着くのが難しかった。優しい母なら愛してくれるし抱きしめてもくれる。でも母は愛してくれないし抱きしめてもくれない。ならば優しい母ではなくなる。母は優しい母でなければならない。

葛藤を解消するために私は「母に愛されたい、抱きしめられたいなどとは考えてなどいない」と思い込もうとした。しかし愛されたい、抱きしめられたいとの欲求は人間の本能だ。やはり求めてしまう。その都度裏切られる。そのうちに、「母に愛されたい、抱きしめられたいなどと願う自分が馬鹿なのだ」と自己否定がはじまる。

人間が受ける心の傷のなかで最も深いものが自己否定だという。そりゃそうだ。生きていてはいけないと自分で自分に言い続けているようなものだから。自分に嘘をつき、自分を否定する人間がまともな人間関係など築けるはずもない。

こうしてみると心は非常に理路整然とできているとわかる。心の問題は複雑なものに思えても順を追っていけば必ず説明できる。ただし他人から指摘され説明されたとしても解決には行きつかないところがまた厄介なのだ。あくまで自分で気づく必要がある。

私が気づいた本音についても高橋医師の本にはちゃんと記述があり何度も目にしていたはずたった。目にしていたけれどもはっきりと覚えていない。人から教えられても自分の言葉で悩まなければ本音にはたどりつけないのがよくわかる。

悩ましいことに本音にたどり着けたからといって心の問題が解決したわけではない。人への不安、恐怖はまだ根強く残っている。仕事をする勇気もいまひとつ出ない。それでも長い苦しみに耐えて何とかここまで自分を知ることができたのだ。これは自信につながると思う。

苦しみ方、悩み方がわかってきた。
それが本音に気づけた一番の収穫かもしれない。

追伸
生まれてこのかた毎日が不安でその不安の原因がわからず苦しんでいる人がいるなら虐待を疑ってみるのもひとつだと思います。ただし虐待に気づくのは記憶の捏造とは違うので注意が必要です。またカウンセリングを受けるなら国家資格を持つカウンセラーでなおかつ虐待に関してのカウンセリング経験豊富な人を選ぶのをおすすめします。私は二年前に良いカウンセラーに出会えたので幸運でしたが、それまでは随分と苦労しました。的を外してしまうと苦しみが増すだけという可能性もあります。ご注意ください。

ー 終わり ー





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?