辛過ぎる人生だったと認め、耐え難きを耐えた人間なのだという尊い自負を持って進みたい

スーパーでレジの店員とするやりとり程度の関わりであっても持たなくていいのであれば持ちたくないほど、私は人が恐い。

私は人と関わったときに否定的な感情がわきあがると「ああ、今、私は人を恐れているんだな」と、その感情を否定や抑圧したりせずに味わうようにしている。
それは自分で自分に行うカウセリングだ。

それを続けるうち、私は妻のことさえも恐れているという事実に行きついた。
今、最も身近にいる妻でさえも恐れているという気づきは厳しいものではあったが、心の立て直しのためには大切な一歩でもあると信じた。

引き続き自分カウンセリングを続け、人が恐いというときの対象に妻も含み、その感情を味わうようにしていくと変化が起きた。
これまで人に対して抱くネガティブな感情を自分自身で理解する際に使っていた、「人が恐い」という表現よりも、「人とつながっていない」という表現の方がしっくりくるようになってきたのだ。

人が恐いという表現で勿論間違ってはいない。ただ人が恐いという理由だけで湧きあがる感情を理解するのには限界があり、もう少し掘り下げる必要を感じたときから、人とつながっていないというキーワードに照準があいはじめた。

人が恐いという事実より人とつながっていないという事実の方が受け入れ難い。
なぜなら、人とつながっていないとは、人と感情を共有しておらず、人を信じられず、人に安心できない、姿かたちこそ他の人たちと同じではあるが、人と違う心を持ち、人と異なる価値観で生きているということであり、私は決定的に孤独であると認めることになるからだ。

人とつながっていないという厳しい現実を受け入れるしかないと思えるようになれたのは、妻に対する本音に気づけたからだ。
彼女は私を理解してくれており、私も彼女を理解してあげていると信じてきた最後の砦である妻ともつながっていなかったとわかったとき、こりゃもう人間全員とつながっていないなと腑に落ちた。

考えてみれば当然だろう。産んでくれた母ともつながっていないのだから、それ以外の誰とつながれるというのか。

私は格好をつけるつもりはないし、決して強い人間でもない。
ただこれだけはいえる。私は五〇年間、孤独に一人で生きてきた。

五〇年間、本当に一日も休まず、病のとき(で痛みがひどくない場合のとき)も、二日酔いのときも、目が覚めているときは常に「生きるとは」と考え続けてきた私の人生が、私が孤独であったと証している。

これを読んでくださっている方のなかにもそういう方がおられるはずだ。
孤独は人間にとって最も耐え難いものだという。
もしそうなら私たちは極限状態を生き抜いてきた人間ということになる。

「イマココ(私)さんはもし戦場に行ったとしても冷静に周りを見ていると思いますよ」

カウンセラーにそう言われたことがある。
そんな生き方をしてきたのなら、この先絶対に自分らしい生き方を見つけてやる。

同じような境遇の方々へ
人が耐えられないような苦しみに耐えてきたのですから、絶対に自分らしく生きられる場所を見つけて「良い人生だった」と言えるようにしましょうね!

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今回はこれにてご無礼いたします。
ありがとうございました!
みなさん、お達者でー

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