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短編小説『エスパー茉莉の秘密の職業』

なにもかも藪の中で起こっている。


 
「茉莉さん、殺人課より依頼があった。土曜の朝に申し訳ないね」
 とレナード・マリエンバート博士から携帯に電話があった。モスクワの学会へ出張中のはずだから、向こうは朝の五時頃だろう。
 わたしはがっかりした。駅前に新しくオープンしたケーキ屋の長い行列へ一時間も並んで、ようやく次に呼ばれる順番だったのだ。そこの和栗のモンブランはイートインのみで、お昼には完売してしまう。事前予約もネット販売もやっていない。しかも、十一月だけの限定メニューなのである。
「レナード、ごめんなさい。今、ちょっと立て込んでいるから……」
「大至急だ。電車でもタクシーでも、早いほうでセントラルへ向かってくれ」
 あぁ、人でなし、鬼、悪魔!
 博士がダンディなイケメンでなければ、こんなブラックな仕事、すぐに辞めてやるのに!
 なにが世のため、人のためだ!
 

 
 仕方なく、わたしは中央警察署へ向かう。
 文字どおり……あっという間に。
 公共交通機関を利用せず、テレポーテーション……瞬間移動という手段で。
 体力的に一日に一回しか使えない能力だけど、そんなに頻繁には使うこともないから。
 誰もいない路地へ歩いていき、真っ青な大空を仰ぐ。空気を肺いっぱいに吸いこむ。
 どんどん、どんどん吸いこむ。危険なくらいに膨らんだ風船みたいに。
 すると、頭のどこかで、パチン!と何かが弾ける。視界が一瞬だけ真っ白になって……わたしは気を失う。
 


 
 いつの間にか、古いレンガ造りのビルヂングの青銅の門の前に立っている。
 旧式のエレベータでガタゴトと三階へ上がって、はだか電球の弱々しいひかりが揺れる廊下を進むと、異国のスパイスの独特な匂いがする取調室Aの観察エリアへと入っていく。
 どうやら、その匂いは拘束されているアラブ人風の青年のものだった。
「マジックミラーの向こう側にいる男は、ハッサンと近所で呼ばれていて、日本語が通じない。本名も国籍も不明だ。雇い主の工場長を殺害し、その死体を何処に捨てたのか分からない」
 亀吉警部は会釈さえもせず、せっかちに本題を切りだした。
「おれは何千人も取り調べをおこなったが、カツ丼トークが通用しない相手は初めてだよ。カツカレーの出前でもとってみるかな」
 よく分からない冗談を警部は言ったが、わたしにはまるで響かなかった。
「五分だけ、容疑者とふたりにしてください」
「一時間でも二時間でもどうぞ。奴が少しでも変な動きをしたら、なだれ込んで助けてあげるからね」
「自分の身は自分で守れます」
 
 ノックして取調室へ入り、わたしがスチールデスクを挟んで腰かけると、黒いTシャツ姿、小麦色の肌のハッサンは気だるそうに彫りの深い髭面を上げた。
 なかなかのハンサムだった。
 この日本人の女は何者だ、と困惑しているのが分かる。それはそうだろう。どう見ても、わたしは刑事や弁護士、牧師には見えない。
「ハッサン、よく聞いてちょうだい。あなたは動けない。動かない。じっとしていて。さぁ、ほんの少し、おでこに触らせてもらいますよ」
 そう囁いて、わたしは彼の額へ手を伸ばそうとした。
 すると、パシッ、と払いのけられてしまった。
「痛い!」
 あれっ、うまく暗示が効いてない!
 ハッサンが警戒し、わたしを睨んでいる。相変わらず、無言のままだ。
 マジックミラーの向こう側で、警部は余計な心配をしていることだろう。
 ……大丈夫ですよ。勝負はこれからですから。
 わたしは、ショルダーバックから銀のテーブルスプーンを取りだす。
 さぁ、ごらんなさい、とハッサンの目と鼻の先にかざした。
 これから、誰も信じられないような芸を見せてあげるからね!
 念力を使い、わたしはスプーンを曲げた。
 グニャグニャに歪め、幻想的、且つ、神秘的に躍らせる。燃えさかる火の中で、ヴェネチアの職人がガラス細工を自由自在に操るみたいに……
 おぉ!、とハッサンは目を見張ったが、次第にまぶたが重くなる。
 つまり、これはわたしの得意とする催眠術であり、期待どおり、彼はストンと夢の世界へと転がり落ちてくれた。もはや、本人は夢か現実かの区別もついていないだろう。
 わたしは立ちあがって、イビキをかいているハッサンの広い額に手をそっと当てる。
 そうして、呼吸をシンクロさせ、彼の思念を慎重に、丁寧に編み物をするみたいに読みとった。
 


 
 それから、わたしは地味な応接室へ案内され、故障中と張り紙された販売機の、生ぬるく薄い色の珈琲を振舞われた。
 美味しくないな、としかめ面をしてると、亀吉警部がくちゃくちゃのハンカチで首元の汗を拭きながら部屋に入ってきた。
「茉莉さん、チーズケーキは好き?」
「えっ?」
 警部のいかつい顔とチーズケーキという言葉がミスマッチだった。
「レアチーズケーキ」
「すっ、好きですけど」
「ベイクドチーズケーキは?」
「大好きです」
「冷蔵庫にたくさんあるよ。好きなだけ、持って帰りなさい」
「どっちですか?」
「どっちって?」
「レアチーズ?ベイクド?」
「両方」
「マジですか」
「北海道の後輩の手土産だが、おれ、和菓子しか食わんから。三花亭って聞いたことある?」
「三花亭!札幌でしか売ってないんですよ!」
「あっ、そうなの。良かったじゃない」
 わぉ、やった、すごい、とわたしは小躍りする。
 亀吉さんのことを、単に怖いオジサンとしかイメージしていなかった。
 やさしい人なのだ!警部を誤解していた!チーズケーキをくれる人に悪者はいない!
「それで遺体はどこに?」
 真剣な表情に急に切りかえて、警部はたいして長くもない脚をくんだ。
 怖いオジサンに戻ってしまった。
「小さく切り刻まれ、トイレへ流されました」
 わたしは、はっきりと答えた。
 さっきテレパシーで得た情報を整理して、できるだけ客観的に伝えた。
 だけど、いつだって自然に感情が高ぶり、どっと涙が溢れてしまう。
 他人の心が分かるというのは本当につらい、苦しいことなのである。
「ハッサン滝川というのが、彼の本名です。そして、工場長を殺したのは彼ではありません。殺したのは工場長の妻です。ハッサンは彼女の罪をかぶろうとしています」
 わたしは涙声になっていた。
「なるほど、そのパターンだったのか……」
 警部がさっきの汚れたハンカチを差しだしてくれたけれど、もちろん、わたしは辞退した。そんな臭いものを使う勇気はない。
「ハッサンは生まれつき声帯に障害があって、言葉を発することが出来ません。聴覚には問題がなく、実は日本語をきちんと理解できているのです。殺された工場長は、不法滞在者のハッサンを性的なストレスのはけ口にしていました。わたしの口では言えないような、ひどい、ひど過ぎる虐待を何年も続けていました。それを知った工場長の妻は、そんなハッサンを慰めているうちに、恋心を……いいえ、強い母性愛を抱いてしまったのです。そしてある日、心を病んだ妻は発作的に夫を階段から突き落としました。打ちどころが悪かったのでしょう。即死でした。それを目撃したハッサンは遺体を自分の部屋のシャワールームへ運び込み、二週間もかけてポータブルの電気ノコで解体作業を根気よく行ったのでした」
 そこまで話し終えると、わたしは号泣した。ハンカチを持っていなかったので、ポケットティッシュで涙を拭いた。
「一昨日、工場長の妻は自殺したよ。七階のマンションの屋上から飛び下りた。ハッサンには、まだ知らせていない」
 そうつぶやき、警部がため息をついた。
「知らせたくないですね」
 とわたしは言った。
「仕方ない。おれの役目だ」
 と警部が答えた。
「ハッサンはどうなるのですか?」
「さあ、分からん。どうしようもないくらいに悲惨な事件だ。おれは、きみの話をぜんぶ信じるよ。信じるとも。実際、その通りのことが三人の身に起こったのだろう。しかし、この世の中では、はっきりとした証拠が求められる。目に見えないこと、聞こえないことは認めてもらえないのだ。そして、この事件に関して言えば、そのような物理的な証拠を提出するのは難しいかもしれない。ハッサンは喋れないからな。しかも、不法滞在者だ。いろいろな意味で、かなり状況は不利だと思うね」
「証明できなくても、実際に起きたことです」
「どんな事件だって、そういうものだ。実際に起きたことは語られない。ニュースで報じられることのほとんどは、ある意味、誰かが金もうけのために書いた物語なのだ。実際に起きたことではない」
「だったら真実ってなんですか?誰かが書いた嘘の物語なんか、どんな意味があるのですか?」
「ときどき、おれもそのことは考えるよ。もしフィクションなら、どのような意味があるのだろうって。そもそも真実なんて、人間の捉え方次第だから。言ってしまえば、なにもかも藪の中で起こっている。むかしは、おれもそんなふうには思わなかったがね。正義がなにか、悪がなにか、もっと単純で分かりやすかった。ところが、近ごろは違う。情報で溢れ、わけが分からなくて、頭がどうにかなってしまいそうだ。行き先どころか、自分が立っている場所さえ曖昧になっている。さてさて、こんなふうに理屈っぽくなってきたら、おれも潮時なのかもしれないな」
 そう言って、亀吉警部は腰をおさえながら立ちあがった。
「チーズケーキはどこでもらえますか」
 わたしは、ちゃっかり忘れていなかった。
「黒澤茉莉さん……きみはタフな人間だね」
 警部が笑顔に戻って、じゃあ一緒に来なさいと応接室から先に出ていった。
 
(了)

イラスト/ノーコピーライトガール

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