* 「お化粧もお洒落もしなくてよくなりました。おかげで、その時間を有効に使えています」 深夜のラジオ番組で、丸の内のОLさんがそんなことを言っていた。コロナ禍で在宅勤務になって、お出かけするのも近所で買い物するくらいだから、そんな必要はなくなったということだ。なんだか、悲しいきもちになった。 わたしにとって、お化粧もお洒落もやらなければならないことではない。やりたくてしている、きもちを上げるためにしている。もちろん、人それぞれだろうけれども。 百二十年間、そうやっ
The Glass Voyage/ A Short Story 1、 その冬、ジェイクは、リトル・イタリーの小さなカフェ・ショップを8万ドルの現金で買い取った。 店の名前は、フラ・アンジェリコ。ルネサンスの画家の名前だった。 地元の若者たちが、エスプレッソやカプチーノ、パニーニ、ジェラートを楽しんでいる。 ある朝、ジェイクは、楽屋にいるあたしに会いにきて、あの仕事から足を洗ったから、俺と結婚してほしいと頼んできた。 これからは、カフェのオーナーとしてま
1、宇宙なのか深海なのか判らない 人気俳優の窪田拓斗(30)が自殺した。 クリスマスの夜、ニューヨークのブルックリン橋から飛び降りたのだ。 衝撃的な出来事だったから、二ヶ月くらいはテレビや新聞で騒がれた。海外のニュースでも取り上げられた。 彼の死は、人びとの記憶にしっかりと刻みこまれた。 そういう意味では、予言通り……サンデー湯河の願いは叶ったわけである。 予言通り……? いや、もしかしたら、あれは呪いだったのかも知れない。 事件から一週間後、 「葬式に来てください」
* その城塞の形をした職業安定所には、くたびれた灰色の背広の老人がひとりで働いていた。 太陽が傾きかけた頃、背広の老人のいる窓口へ、やけに耳の大きな青年カフカくんが訪ねてきて、 「なにか仕事がしたいのです」 とお願いした。 老人は逆に質問した。 「どんな仕事ができるのかね?」 考えてみたら、カフカくんはなにもできない。 それも仕方のないことだった。 これまでに働いたことがないのだから。 「なにかできるようになったら、またいらっしゃい」
* 昼すぎ、ノルマの原稿を書き終え、キッチンでカレーライスを食べていたら、ぼくの携帯が鳴った。知らない番号だったので、セールスかと思ったが、とんでもない用件だった。 結果、その悲劇的ともいえる会話を交わしているあいだ、せっかくのカレーライスはすっかり冷めてしまったけれど、もう一度、温めればいいだけのことだった。 それは、こんなふうに始まった。 「高梨真守さんですか?」 電話の向こうで、女が言った。 「どちらさまですか?」 とぼくは聞いた。 「牧野糸子
その1、 深夜、ぼくの美しい女優の妻はCMの撮影から帰ってきて、スタジオでなにも食べなかったの、なにか作ってくれるかしら、と言った。 そういえば、グリュエールがあったな。賞味期限の短いシュレッドしたものが。 ぼくは風呂から出たばかりだったので、吸水性にすぐれた薄手のタオルで頭髪を拭きながら、チーズオムレツでも食べるかい?カボチャのスープもあるけど、と聞いた。 妻が食べたいと答えたので、両方?と確かめた。 ほほ笑み、妻はうなずいた。機嫌が悪いわけではなさ
* 田中コボルの本当の名前は、ナヤ・サガラ・ハラヤカタサァハナルという。誰も、そのことを知らない。なぜならば、彼は、ほかの渦巻き銀河からこっそりと訪れた調査員だから。 この惑星に赴任して、はや三年。人類のフリをして、中央区荒獅子町に3LDKの高級マンションを借り、何不自由なく、ひとり気ままに優雅に暮らしている。その生活の様子はすべて、母星に四次元トランスミットされる。それ自体が、重要な任務なのだ。 毎朝、必ず、七時に起きる。目覚ましは必要ない。パジャマのままでキッチ