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【掌編小説】愛し方、忘れ方

僕は3年前に死んだ彼女の墓参りに来ている。僕は墓参りが好きだ。図書館の次に好きだ。そこはいつも静かで、下品な笑い声は聞こえないし、品定めするような目で見てくる輩もいない。だが盛夏の太陽光線にはノックダウンされつつある。

山を切り開いた場所にある霊園は、生きている森を殺し、人間の死者を葬るという矛盾した存在。なぜ殺生を禁ずる仏教の坊さんがこういう存在を許すのかは謎だ。僕は周囲にある青々とした木々を見渡した。強い日差しを浴びて気持ちよさそうに葉を微風に揺らしている。御影石の下に眠る彼女を想う。それにしても熱い…。今これを読んでいる君たちは僕がこれから彼女の思い出を語るのだろうと考えるだろうが、僕は書かない。三年前に死んだこと以外何も書かない。彼女が何が好きで、何が嫌いか書かない。身長はどれくらいで、どんな髪形をしていたか、どんな声をしてて、どんな笑い方をして、どんな恥ずかしがり方するのか僕は書かない。どんな音楽が好きで、どんな本が好きで、どんなお酒が好きで、どんな酔い方をするのか僕は書かない。どんな職場で働き、どんな上司を嫌ったか、どんな言葉に傷ついたか、どんな悩みを抱えたか、どんな達成感を感じたか僕は書かない。スカートとパンツスタイルのどっちが似合っていたか、胸がどれくらいなのか、どこを触れると感じやすいのか、どんな時に体を求めるのか僕は書かない。もちろん、僕らがどんな風に出会い、どんな風に距離を縮め、どんな風に喧嘩し、どんな風に仲直りし、どんな風に愛し合ったか書くわけない。

僕はライターでくしゃくしゃにした新聞紙に火をつけ、線香の束をかざす。束全体に火が移ると、軽く手を振って火を消し白い煙が出るのを確認して、香炉にそっと置く。かがめた腰をあげ、立ち上がる。目を閉じて手を合わせる。夏の暑さが僕の体全体に攻撃を仕掛けているのが、目を閉じるとよくわかった。そういえばあの時も…。おっといけない。僕は語ろうとしている自分を止めた。

霊園の事務所の自販機でポカリを買って飲む。そして僕はポケットから小さなペンとメモ帳を取り出し、さっき思いついたことを書き留める。僕は人間の記憶力というものを信じない。それが大切な思い出だとしても。それから、よく言われる人々の美しい言葉を僕は信じない。一生忘れないとかそういうたぐいの言葉だ。形として残さないといけない。人の心は思った以上に移ろいやすいから。このメモ帳には僕が語らなかった彼女の事柄が思いつくまま書き残している。そして、このメモ帳を書ききったらクローゼットの奥にしまう。すでに一冊目のメモ帳はページが開かないように周囲をガムテープで止められて目に触れない場所で眠っている。こうすることが僕が発明した僕なりの愛し方、忘れ方なのだ。忘れることを忘れるために。


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