【掌編小説】捧げる
「大きな大きな力が私をどこかに連れ去ってしまうの」
そう少女は言った。
崖上の潮騒が聞こえるベンチに座りながら彼女の確かな声をきいた。僕はその響きに力強さを感じ取った。タバコを一本とり、火を付けずにただ海を眺めていた。潮は満ちていく。あと10分もすれば僕らが見下ろす岩場は海に沈むだろう。
「それはどうしようもないことなのかい?」
僕は言った。その声は目の前にひろがる大海原に対して無意味に、空虚に聞こえ僕はひるみそうになった。
少女は僕に向き微笑んだ。そしてまた海に視線を投げた。
水平線に小さく霞んだ船が見える。
僕はもうすでに彼女が遠くに行ってしまった事を悟った。
火の付いていないタバコを唇に押し当てて、その事実を飲みこもうとしていた。海面にきらめく太陽の光線が目に染みた。風は僕たちの間を軽やかに吹き抜けてゆく。
「君との思い出を小説に書こうと思うんだ…。もちろん実名は出さないし、いろいろと脚色もするけど。いいかな?」
少女はうなずいた。
「ありがとう」
僕は言った。そう、ありがとうだ。僕が言いたかったのは。僕はもう一度彼女に言った。
「ありがとう」
彼女は一瞬不思議な表情を見せた後、微笑んだ。僕はいたたまれない気持ちになった。だが時間は限られていた。崖下の岩場はもうすぐ海に没する。
子供の頃、あの岩場でみんなで遊んだことを思い出す。転んでけがをしたこともあった。クラゲにさされ大泣きした子もいた。きれいな貝殻も拾った。記憶が鮮明によみがえる。あの時の笑い声が潮騒に混じって聞こえてくるようだ。僕は涙ぐむ。少女に悟られないように顔を伏せた。
「もういかなくちゃ」
少女は立ち上がり、スカートについた埃を払った。
彼女は僕に手を差し出した。まるで励まされたかのようにその手を握り立ち上がる。僕は言う。
「また会えるかな?」
答えられないことを知りながらそう言った。彼女の目から一粒の涙がこぼれた。僕は彼女に微笑み、手を強く握りそして離した。少女は姿を消した。地面に涙の跡を残して。
僕は涙の跡が少しづつ小さくなり消えてゆくのを見守った。完全に乾ききって消えてしまうと、煙草に火をつけた。
煙を吐き、崖下の岩場を見下ろした。もう完全に海に沈んでいた。僕は願った。彼女との思い出がずっと海の底で、古代遺跡のように静かに残っていて欲しいと。
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