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マネジメントという仕事の楽しみ方、あるいは、パクチーと豚バラ肉の餃子のおいしさについて

 今、所属している組織でマネージャー/管理職を拝命して3年くらいたった気がするのですが(時間間隔が曖昧でうろ覚え)、その間に幾多の試行錯誤を重ねた結果(これもうろ覚え)、マネジメントという仕事をけっこう自分は楽しめているのかも、と感じる機会が増えました。

「一体これはどういう意義のある仕事なのだろうか?」「何が楽しくてこの仕事をやっているのだろうか?」と思っていた当初からするとずいぶん遠くにきたものだなあと思います。過去にあんまり興味がない僕ですら、ちょっとは感慨深い気がします。

こういうことを書くと「いかにして自分が今のような状態に至ったのか」という個人的なヒストリーが始まりそう…と思う方もいるかもしれませんが、そういうのは書きません。覚えてないから書きようがない、というのもあるし、僕自身が特にそういうことに興味がないので。

僕が興味があるのは、なぜ今自分はマネジメントという仕事を楽しめているのか、どういう思想を有しているか、どういう認知をしているから、どういう価値基準を有しているから楽しめているのか、という問いに対して、自分なりの答えを出すことです。ということで、この極めて個人的な知的探究活動の一つとして、この文章を書くことにしました。

これから書くのはあくまでも僕の個人的な思考と嗜好による楽しみ方の話です。誰かの悩みを解決するとか、日々のマネジメントに役立つ学びとか、そういうのとは無縁の、そうだなあ、パクチーと豚バラ肉の餃子をレモンと塩コショウのタレで食べるのおいしいよね、くらい嗜好性と個別性の高い話です。役に立つとか、助かるとか、共感とか、そういうことじゃなくて、おもしろいとかおいしいとか、お腹へったなあとかそういう種類の話です。あしからず。

※すごく長くなってしまったので、箸休め的な感じで、日々人生を楽しんでいる僕の心の師匠たちの写真を入れることにしました。内容とは全く関係ありませんが、見ていていい気分になると思います。

※書きたいように書きたいので、誰にでもわかりやすいような構成や内容にはなっていません。こちらもあしからず(それはそうと、アートだとわかりやすいことって求められないのに、文章だとわかりやすさが求められるのってなんでだろう。両方コミュニケーションなのに不思議。)



【前提】「楽しさ」は存在しない。

本題に入る前に、楽しさについて書いておこうと思います。

僕は「楽しい仕事」とか「楽しい趣味」とか、もっというと「楽しさ」ということ自体が存在しないと思ってます。「楽しさ」というものが自分の外に、この世界のどこかに存在していて、それに出会うとかそれを見つけるとか、そういうものではないと考えている、ということです。

「楽しさ」という名詞で表現できる何かが外在していて、それを知覚することで楽しい状態になる、というものではなくて、「楽しむ」という動詞として、内在的に、主体的に行うものとして考えてみるのがいいのではないかと思っています。

例えば、ビールは苦くて変な匂いのする飲み物だけど、大人になるとおいしく感じるのは「おいしいビール」(名詞)があるのではなくて、「ビールをおいしいと感じる("おいしめる")」(動詞)ように自分の感覚が変化するから、と考えることができます。納豆もわかりやすい事例かも。日本人は「おいしめる」けど、外国人から見ると腐ってるようにしか見えなくて、ナニコレとなるみたいな。

ということで、ここでは、外在的に存在する名詞的な「楽しさ」と、楽しむという行為の対象となりえる動詞的な「楽しみ」を区別して書いていこうと思います。

さらに、もう一点。

「楽しみ」というものは、何か単独で取り出せるようなものではなく、全体的なもの(wholistic)としてとらえる必要があると思っています。

僕は登山が好きなのですが、登山の「楽しみ」は何なのかと言われたときに説明するのが難しいなといつも思います。準備は面倒だし、早起きはしんどいし、登ってるときは早く終わらないかなと思うし、テント組み立てるのは大変だし、天気や体調見ながら予定を都度変更していくのも疲れるし。大変なことばかりで、楽しみがどこかにあるのか、いまいち判然としません。

なぜそう感じるのか?それは、登山のプロセスの中のどこに楽しみがあるのか?というのは問いの立て方がそもそも不適切だからなんだと思います。

名詞的な「楽しさ」がプロセスの中に点在しているのではなく、登山というプロセスそのものを楽しんでいる、別の言い方をすると、「楽しみ」はプロセス全体であり、その中に身を置くことが楽しむということだ、と捉えるといいのではと思っています。

頂上で美しい景色見たいならヘリコプターで行けばいいし、おいしいビールが飲みたいならわざわざ山いかなくてもサウナにでもいけばいいわけですが、でも、そういうものではないわけです。目的とか手段とか、効率や妥当性とか、そういうものと「楽しむ」ということは距離があるというか、世界観が全く異なるものだなと思います。

という感じで、「楽しむ」という動詞でとらえる、要素分解せずに全体を楽しむ、という世界観のもとに「マネジメントというのはどんな仕事なのか?」、「その仕事をどうしたら楽しめるのか?」ということを考えていきたいと思います。

前置き、なげー。

マネージャーは「なんとかする人」じゃない

「英語のmanageには"なんとかする"、"どうにかなしとげる"という意味があります。なので、マネージャーとはいろんな苦難を乗り越えながら成果を出すために何とかする人です!」みたいなことが、ビジネス本とかtwitterとかに書いてあるのを見ると、「それって別にマネージャーだけじゃないのでは?」「そう言われてもマネジメントとして具体的に何をどうするかわからないんですけど…」「そもそも生きるってそういうことでは?」といろんなモヤモヤが湧き上がってくるのは僕だけではないはず(ですよね?)。

なので、僕はあんまりいい説明じゃないなあ、もっと違う視点が必要だなと思っていたのですが、とはいえなかなか代わりの説明が思いつかず、2年くらい保留していました。でも、最近こう考えるといいかも、という視点を獲得しました。言葉にしてみるとこんな感じです。

  • 事業と組織が「なんとかなっている (be managed) 」という状態を実現するのがマネジメントの役割

  • 「なんとかなっている」ときには、課題解決と非課題解決による状況転換が並行して実行されている(しかも定常的に)

  • 実行すること(DO)ではなく、つくること(MAKE)によって成果を出すのがマネジメントの流儀

僕の中ではこれだけで「そういうことだったのか!スッキリしたわ。はい解散」という感じなんですが、もうちょっと具体的に記述しないと文章として残す意味ないので、1個ずつ説明を試みたいと思います(感覚的に理解している部分が大きく、そもそも人に伝わるようなものなのかさえもわからないんですけど)

事業と組織が「なんとかなっている (be managed) 」という状態を実現するのがマネジメントの役割

そう、マネージャーは「なんとかする (manage) 人」ではなくて「なんとかなっている (be managed) 」という状態を実現する人」というのが僕の現段階での結論です。
この2つは似ているけど、でも全然違うことで、どちらの認識を持つかでやることや目指すことがずいぶん変わると思っています。
「マネージャーはなんとかする (manage) 人だ」という認識には、自分が何かをやる、主体的に動く、責任を持って関わることで成果を出す、というような「自分が動作や責任の起点である」という前提が含まれてしまうような気がします。その前提があると何か問題が起きたときに『自分がどうにかしなければならない/自分が何かすることがソリューションである』という思考の制約が生まれることで、発想と打ち手の自由度が下がるということが起きてしまうと思っています。これがよくないなと。実際に自分もそういう制約を勝手に作って、いろんな失敗をしてきた気がします。まあ、失敗のことはあんまり覚えてないんですけど。
ちなみに、これは「自分ではなくメンバーのことを考えるのが大事だ」のような(道徳的というよりも)感傷的な価値観の話では全くないです。僕はそういう一種のロマンチシズム(あるいはヒロイズム)はマネジメントにおいては悪い方に働くと思っている派なので。

また、「マネージャーはなんとかなっている (be managed) という状態を実現する人だ」という文は受動態になっているのですが、これも重要だと思っています。

受動態で主語がない状態になっていることで、なんとかなっている状態になれば、自分でも他のメンバーでも誰がやってもいいと考えやすくなるなと。自分を起点に置く必要性がないことで、より自由度の高い状態で思考できて、打てる手の幅が広がるなと思っています(文章表現としては見た目上は受動態になっていますが、意味としては中動態としてとらえてる感覚です。中動態って何?という方は、國分功一郎先生の名著「中動態の世界 意志と責任の考古学」をご一読ください)

言語表現についてさらに別の視点を提供すると「なんとかする」というのは当事者の意思や活動や姿勢ですが、「なんとかなっている」というのは状態です。なので、極論「マネージャーが何もしてなくてもなんとかなっていたらOK=マネジメントとして機能している」と考えても差し支えないわけです。

「ふらふらしてて暇そうにしてるけど、いざというときに平定する力量はある。だけど、その『いざというとき』が来ないように予防的に動くことに全振りした結果、実質的に暇になっていてふらふらしている」みたいな人を目指している僕にとっては、こういった認識を得ることでマネジメントという仕事を受け入れやすくなりました。

という感じで、マネジメントという仕事は「なんとかする」という意思や覚悟や姿勢やそれに伴うアクションの有無や多寡ではなく、「なんとかなっている」という状態を実現できているか否かという視点でとらえていくのがいいのでは、言い換えると、組織や事業をなんとかなっている状態にできていれば、それはマネジメントとして成果を出していることになるのでは、と思ってます。

マネジメントの成果ってなんだかよくわかんねえなとずっと思っていたのですが、こうやって言語化できるようになって、だいぶ視界と思考がクリアになりました。満足満足。

「なんとかなっている」ときには、課題解決と非課題解決による状況転換が並行して実行されている(しかも定常的に)

自分なりにマネジメントの成果を言語化してホクホクしたのはいいんですが、次は「なんとかなっている(be managed)」ってつまりどういうことなのよという問いに対して、何らか答えを出していく必要があるなと。
マネージャーが「なんとかなっている」と思えたらそれでいいんだぜ、みたいな個人の感覚に任せるような話だとちょっと取り扱いづらいので、もうちょっと一般化できないかといろいろ考えた結果、以下の2点を同時に満たしている状態として定義するのがいいのではと思い至りました。

  1. 課題を設定し、それを解決するというサイクルが定常的に回っている

  2. 課題解決以外の方法で状況を変えていくための何かが含まれている

それぞれについてもうちょっと書いてみます。

課題を設定し、それを解決するというサイクルが定常的に回っている

前提になっているのは「なんとかなっている」というのは課題がない状態ではなくて、常に発生する課題に対して適切な手が打たれていく状態だということです。
身体に例えるとイメージしやすいのですが、今日は頭が痛いとか、お腹の調子が悪いとか、なんとなくだるいとか、疲れてるとか寝不足で眠いとか、常に何らかの課題は抱えているわけで、それをなんとかやりくりして日々乗り切っている、というのが僕らの日常で、完全な健康とか万全の状態というのはほとんどないように思います。
事業や組織も同じで、常に課題はあり、それをやりくりして乗り切っていく、ということができていれば十分と考えるとちょっと気が楽というか、この仕事をちょっと受け入れやすくなる気がします。

で、じゃあ、課題解決を定常的に回すとはどういうことかというと、以下のような工程がぐるぐる回っている状態なのではと思います

  1. 組織や事業の現状を正確に把握する(定量的にも定性的にも)

  2. 目指すべき状態や目標を設定し、そこに近づくための課題を設定する

  3. 課題を解決するための戦略とプランを立てる

  4. 戦略とプランを実行するための体制をデザインする

  5. デザインした体制を機能させるための環境を整備する

  6. 実際にやってみて結果を得る

  7. 1から6までをぐるぐる回す

言葉で書くとシンプルで、たぶん仕事してる人は多かれ少なかれ、こういうことをやっていると思うのですが、まあ難しい。日々いろんなことが起きる中で、この工程の一つ一つをやること自体が難しいし、精度を高めよりよいアウトプットを出していくのも難しいし、1-6を連動させて有機的に機能させていくのも難しいし、とにかく全部難しい。

この難しさは「走る」という行為に近い気がします。ただ走るだけなら誰でもできるけど、早く走るのは難しい。身体の各部の筋肉をつけないといけないし、その筋肉を連動させるための身体技術を身につける必要がある。さらに、定常的に早く走る状態を実現しようと思ったら、日々の食事や睡眠など、走る以外のことにも気をつけないといけない。

そのへんのビジネス本を1冊読めばだれでも理解できるくらい、課題解決を実行するためのプロセスはシンプルですが、それを実行に移すためには知識とスキルと経験とその他いろんなものが必要で、まあ大変です。時間もかかる。いきなり早く走れるわけじゃないので、根気強く、一つずつ習得していくしかない(偉そうに書いていますが、僕もぜんぜんできてなくて途上です。道は長く険しい)。

課題解決以外の方法で状況を変えていくための何かが含まれている

突然ですが、子あり共働き夫婦が子どもを寝かせたあとに、夜二人で一緒に皿を洗っているシーンをちょっと書いてみます。

子育てに仕事でお互い疲れている。一方が皿を洗いながら「夜にこうやって皿洗うの大変だわ…この後洗濯物もたたまないといけないし、しんどいなあ」とつぶやく。
もう一方がその話を聴いて「そうだよね。じゃあ、今度の休みに食洗機買わない?そしたら、こんなに遅くに二人で皿を洗わなくてすむし、楽になると思う」と言う。「それはいいアイディアだね。そうしよう!」となって会話が終わる。

前向きでいいじゃんって感じなんですが、今回はもうちょっと別の展開を想定したいなと。

上述の話の後半部分で食洗機の提案がなくて代わりに「そうだよねえ…」で会話が終わったとします。
で、翌日の夕方に話を聴いた側が「昨日の話を聴いて、何かできるかなと考えて、これを買ってきたんだ。これで皿洗いが楽になるわけじゃないんだけど、喜んでくれるかなと思って…」と言って花束を渡すという事象が起きたとします。

この事象をどう考えるか。もし読み手のあなたが花束をもらった側だったとしたらどう感じますか?

話聴いてる/聴いてないとか、コミュニケーションが成立してるか否かとか、そもそもまったく課題は解決してないから意味ないとか、花束いらないとか、男は課題解決型で女は共感型という(普遍性なさそうな)パターン化とかあるよね、とかいろんな見方はあると思いますが、そういうことじゃなくて、大事なのは、「食洗機よりも花束をうれしいと感じる人がいる」「一見関係なさそうな花束が状況を変えうる」ということなのではないか、というのが僕の意見です。

食洗機を買うことで負担は減って楽になる。課題は解決する。
花束をもらうのはうれしい。何も課題は解決してないけど。

これは、どちらがいいとか悪いとかではなくて、人がすこやかに暮らしていくにはどちらも大事であり、どちらもできるようになる必要があると思っています。

花は役には立たないけど、でも、食洗機を買うのとはまったく違う感情のやりとりを生むものだと思います。いたわりや思いやりや、照れくささや、気遣いや、おもしろさや、言葉にできないようなものも。

花を贈るのは難しい。相手の花の好みを知ってないといけないし、家に花器や花を飾るスペースがあるかどうかも考えないといけない。花を贈った経験がなければ、勇気を出すところから始めないといけない。花が好きじゃない相手だったら、他のものを考えないといけない。なので、とにかく難しい。
僕は、食洗機よりも花束を贈る方が断然難易度が高いと感じています。

僕はこの考え方を「食洗機よりも花束理論」と呼んでいます(理論では全然ないけど)。実際には花束じゃなくても、アメちゃんでも、Nintendo Switchでも、オーパス・ワンでも、バナナマンのライブチケットでも、何でもいいと思います。

こんな感じで、課題解決にはならないんだけど、やることで相手を動かす、状況を転換していくことができる何かってあるよねという認識を持ち、その何かを考えて実行することが課題解決と同じように大事なんじゃないか、ということです。そして、暮らしも仕事も人と関わって相互に関係しながら何かを為していく、という点においては本質的には同じなので、組織や事業にもこうした点を反映させていくことが重要なんじゃないかと僕は強く思っている次第であります。

「食洗機よりも花束」を実践しようとすると課題解決とは全く別の思想で、全く別のOSを駆動させる必要があるわけですが、ここが混線してしまって「課題解決として花束を贈る」あるいは「花束と思っていたら食洗機だった」ということが起きて、いろいろややこしくなってしまうことがよくあるなあと(当然、自分の事例も多く含みます)。
それもそのはずで、非課題解決という視点で何かを考える、ということ自体が社会全体で途上のような気もしています。みんな課題解決が好きすぎて、非課題解決についてはメソッドや知見が蓄積されてなくて、わかりやすく学べるような形になっていないなと。ただ、最近いろんなところで目にすることの多い贈与やケア、エンパワメントといった考え方と近接しているようにも感じているので、これからいろんな話が増えていくようにも思っています。楽しみです。

という感じで、僕も言語化できているような、できていないような状態で書いています。とはいえ、あまりにも概念的にすぎるので、組織や事業に花束を持ち込むにはどうしたらいいのか、具体的な実践例として僕がやっていることを書いてみようと思います。

それは「組織内で非課題解決型のアクションを増やす」ということです。

例えば、「待つ」、「信じる」、「委ねる」、「おもしろがる」、「悩む」、「距離を取る」、「チルする」など。まだまだ僕のライブラリが充実していなくてこれくらいしか書けないんですけど、これらのアクションは課題解決視点で見ると意味がない、変化を生まないようなアクションなんです。
目の前に課題がある、解決しないといけない、という状況を前にして、「〇〇さんを信じて委ねる」「〇〇さんがなんとかするのを待つ」という判断は、課題解決視点で見ると、よき変化につながるかわからない、不安定で不明瞭な打ち手に見えると思います。

でも、非課題視点で見ると、「信じる」や「待つ」は花束になりえます。もらった人は喜ぶかも、それを受けて振る舞いが変わるかも、そのことが状況を変えていくためのきっかけを作っていくのかも。
こういうことができる、大事にする組織は肌触りのある居心地のよさが生まれ、それが成果に、「なんとかなっている」状態につながっていくのではないかと僕は思っています。

ここまでの一連の話、合理的に、論理的に考えるとかなり飛躍していて、若干怪しい話に聞こえるかもしれませんが、そもそも合理的、論理的に考えると、食洗機よりも花束とはならないわけです。なので、花束を大事にする視点を持ち込むことに意味があると思う、うまく説明はできないけど、というこの話自体を受け入れられるような、議論ができるような雰囲気や空気感、場があることがすごく大事なのでは、という話です。

実行すること(DO)ではなく、つくること(MAKE)によって成果を出すのがマネジメントの流儀

「プレイングマネージャー」という言葉があります。プレイヤーとマネージャーを兼任している人のことを指すわけですが、この「プレイヤー」と「マネージャー」の違いについて整理している文章を今のところ見たことがなくて、なんかふんわりしているなーとずっと思っていました。
また、「プレイングマネージャーは成果を出しづらい」みたいな話もよく聴いたのですが、それがなぜなのかについてはあまり説明されることないなあと。「すごい忙しくなってマネジメントが回らなくなるから」みたいなことが理由だと思うんですが、じゃあ、忙しくなかったら、回るんだったらプレイングマネージャーでもいいのでは?と思ったり。
これ、あやふやで気持ち悪い、説明に納得いかない、みたいな感覚の問題だけではなくて、「どういうスタンスでマネジメントに取り組むのが成果につながりやすいのか」という本質的な問いにつながるような気がしていて、ちゃんと答えたいなと思っていました。
3年くらいマネージャーやってみて、この問いにようやく答えられるようになった気がするので、現時点での考えを書いてみようと思います(ちなみに、ここの理解が進んだことでプレイングマネージャーの是非についてもきちんと答えられるようになりました。この後書きます)

さて、じゃあ書いてみます。まずはここから。
プレイヤーとマネージャーの本質的な違いは何か?

僕は最初、プレイヤーとマネージャーではやることが違う、つまり、do something to achiveの「somethingに入るもの」がプレイヤーとマネージャーで違うと思っていました。

野球で言えば、選手は実際に野球をプレイする、監督は試合全体を管理する/組織を作る、みたいな感じでやることが違うのだと。なので、自分はマネージャーとして何をするのがいいのだろう?(What should I do ? )と考えて、いろいろやっていました。
でも、それで全然うまくいかないというか、しっくりこない感覚があって、いろいろ試行錯誤した結果、今はちょっと違う捉え方をするようになりました(例によって、このへんの試行錯誤のことはほとんど忘れた)。
それは、やることが違うんじゃなくて動詞自体が違う、つまり、「実行すること(DO)ではなく、つくること(MAKE)によって成果を出すのがマネジメントの流儀である」ということです。もうちょっと具体的に書くと、プレイヤーもマネージャーも成果を出す/目標を達成するという目指すべき状態は同じわけですが、プレイヤーはDO something to achiveであるのに対し、マネージャーはMAKE something to achiveである、プレイヤーとマネージャーの違いはsomethingの内容ではなく、動詞自体が全然違うものなんだ、ということです。

例えば、チームリーダーがチーム運営や事業運営がうまくいっていなくて悩んでいるときに、そのリーダーに対してマネジメントとしてどう関わるべきか。

多様な状況があり、この文章から想像することも人それぞれだと思うのですが、「マネージャーが具体的な施策を考え、リーダーに実行を指示する」、「マネージャーや士気を高めるため/リーダーをサポートするために、メンバーに直接話をする」というのは悪手になる可能性が高いのでは、と思っています(打ち手の有効性は常に状況とセットで語るべきであり緊急度の高い状況では当然このやり方は非常に有効、ということは付記しておきます)。

マネージャーは課題解決をしているはずなぜ悪手になるかというと、マネージャーがDOをやってしまっているから、という説明ができると思います。マネージャーがDOをやってしまうと、メンバーのDOとぶつかる、つまり、メンバーの役割や価値と重複が生まれてしまいます。権威や権力を持っているマネージャーのDOの方が優先されやすい構造の中で、これをやってしまうと、メンバーが価値を出せる機会が失われてしまいます(穿った見方をすればマネージャーがメンバーの価値を簒奪している、とも言える)。

事業で成果を出すためには、チームの価値の総量が多いこと、チームの価値の多様性が高いことが重要だと僕は思っているのですが、このやり方だと、ある価値をマネージャーとメンバーで奪い合うことになるので、価値の総量も少なくなるし、多様性も低くなってイケてないな。あとは、権威や権力ってすごく人のやる気を削ぐ、というか、なにそれ…みたいな気分にすることが多いので、そういう意味でもイケてないなとも思います。

じゃあ、DOじゃなくて、MAKEとしてどんなことがやりえるか。先程の例で言えば「悩んでいるリーダーがその状況を乗り越えられるような環境を作る」ということなのではないかと思います。
具体的な施策だとDOになっちゃうので、環境を作る(MAKE)と考えるのがポイント。じゃあ、どんな環境だったらいいだろう、ともう一段思考を深めることができ、「本人の現状認識がふわっとしているから、1on1で話してみて状況を一緒に整理してみよう」とか「施策のアウトプットイメージが見えてないから、そこだけ考えて渡してみようかな」とか、「自分で乗り越えることが大事だって思うから、それだけ伝えるために飲みにでも行こうか」とか「リーダーがメンバーと話しづらい状況あるなら、気分変えるためにオフサイトミーティング企画してみようかな。第三者を入れてもいいかも」、「チームに閉じると苦しいから別のチームの人と話す機会作ろうかな」、「とりあえずケーキでも買って一緒に食べるか」とか、いろいろな案が出てくるなと。そして、先述の悪手とは全然違う方向性で、もっと自由度の高いものになるなと。

結局最後はDOになるじゃん!と思うかもしれませんが、これは認識の問題なので、どのアクションもMAKEという意味づけ、認識をしてやることが重要だと思っています。幅広いマネジメント業務の個別のアクションを類型化して、これはDO、これはMAKEというふうに分類することはできないので、MAKEとして実行するという認識こそが大事だなと思います。

また、「メンバーに対してサポーティブに関わるのが大事」「とにかく話を聴く」みたいな、道徳的というよりも情緒的な話ではなくて、マネージャーの役割としてmakeをするという技術の話、もうちょっとドライでひんやりとした話だと思ってます(ちなみに、僕はドライでひんやりしたものが好きです。つるつるした石とか。)

なので、電動キックボードの危険運転の取り締まりを強化するのではなく、危険運転を増やさないような仕組みやルール、マインドセットをどう作るかを考えるのがMAKEであり、傾聴やコーチングで人を育成するのではなく、人が育つ、育つ必要性を感じる、育ちたいと思う風土や雰囲気や仕組みを作るのがMAKE、みたいな感じです。

冒頭の話に戻ります。

こういう視点に立つと、プレイングマネージャーってDOとMAKEの役割を両方担っている人、と考えることができると思うのですが、このDOとMAKE両方やる、環境づくりと実行も両方やると主体者視点では成果をだしやすいって感じると思うんです。自分がやりたいことをやりたいようにやれるので。でも、ちょっと引いた目で見ると、メンバーの機会や成果を簒奪し、組織全体の成果の量と多様性を下げている行為になりうるわけです。これがプレイングマネージャーってよくないよねということの本質的な理由な気がしています。ただ、こういうDOとMAKEを両方やることが有効な状況も存在している(トラブル対応時、危機対応時など)わけで、一概に悪いとも言えなくて、やっぱりこれも状況次第だなと思います。

最後に、マネジメントとして具体的に何をMAKEしていくのがいいのか、という問いにも取り組んでみたいと思います。

シンプルに考えると「成果を出すために必要なものすべて」なわけですが、それだけ味気ないので、僕が特に重要だと思っている/実践している(できてないけど)3つを紹介したいと思います。

Hopemaking

希望を作るのはマネジメントの大事な仕事の一つだと思います。ここで言う「希望」はビジョンとかミッションとか、そういう遠い未来/あるべき姿みたいなものではなく、今後よくなっていくと思えること、くらいの感じです。
例えば、繁忙期でチーム全体が身も心も疲弊してるときに必要なのは、今と非連続な遠いビジョンじゃなくて、今と地続きのちょっとよくなってる見たい未来なんじゃないかと。
なので、「今よりもよくなっているはずのちょっと先の未来までの道筋」を希望として示していくこと、そのために現状認識、課題設定、解決のための方針と施策、スケジュール、そういったものが具体的に示していくことがすごい大事だなと思ってます。

Sensemaking

今やっていること、これからやっていることの意味合いの整合性を取ること、筋を通すこと(make sense)もすごく大事だなと思います。
僕は、人は迷ったとき、悩んでいるときにパフォーマンスがすごく落ちると思っていて、そういうときって、自分のやっていることと組織やチームが目指していることに乖離があるときが多いなと。
そういうときに必要なのは「とにかく1on1で話して納得感を持ってもらう」みたいな個人への個別アプローチではなく、組織や事業としての方針や考えを明確に示すことだと思います。個人の迷っている問題に矮小化せずに、組織が迷わせてる問題として捉える、という言い方もできるかも。
考えや方針が明確になれば、人は考えることができ、自分を適応させていくこともできれば、やっぱりちがうんじゃないかとアップデートのための議論もできるようになります。必要なのは、合意形成しやすい筋の通ったストーリーであり、個人の納得感ではないと考えると、やることもシンプルになっていいなと思います。

Peacemaking

人が集まれば、いろんなことがおきます。なので、平和、平穏って自然には生まれなくて、それを目指すためのデザインや試行錯誤が必要だと思います。
でも、こう書くと「みんなで仲良くやろう」とか「コミュニケーション取るように雑談しよう」みたいなことになると思うのですが、平和ってそういうことじゃない気がします。
僕は甲本ヒロトさんが「学校に居場所がない子に言ってあげられることはありますか?」という質問に対して答えた、以下のコメントが参考になるのでは思ってます。

「居場所あるよ。席あるじゃん。そこに黙って座ってりゃいいんだよ。友達なんていなくて当たり前なんだから。友達じゃねぇよ、クラスメイトなんて。たまたま同じ年に生まれた近所の奴が同じ部屋に集められただけじゃん。」

「趣味も違うのに友達になれるわけないじゃん。山手線に乗ってて、『はい、この車両全員仲よく友達ね』って言われても、『いや、偶然今一緒に乗ってるだけなんですけど』って。友達じゃねぇよ。」

「ただ、友達じゃないけどさ、喧嘩せず自分が降りる駅まで平和に乗ってられなきゃダメじゃない?その訓練じゃないか、学校は。友達でもない仲よしでもない好きでもない連中と喧嘩しないで平穏に暮らす練習をするのが学校じゃないか。だからいいよ、友達なんかいなくても。」
https://kogusoku.com/archives/11653

平和って、自分が居心地よくいられる、自分を発揮できる場所があることであって、それは誰かとの仲の良さの強度によって作られるものではないのではないかなと(もちろん、仲悪い人がいて居心地が悪い場合はありえるけど)。
仲良くない二人がいたときは、仲良くなってもらうは本当にソリューションなのか、仲良くない人たちがそれぞれ自分の持ち味を発揮できることを考えたときに、一番よいと思われる平和な手は何なのかを考えることが必要な気がします。
その人がその人らしくいられる、やりたいことができる、やるべきこともやれている、そういう状態を作っていくことが平和につながるんじゃないかなと僕は思っていて、具体的には、コミュニケーションや仕事の進め方についての適度な秩序を作る、目標や期待役割を明確にする、働きやすい環境を整備していく、みたいなことが実行していくことが大事だなと。こういうのは成果を出すという意味でもすごく効果が大きいと思います。

Making is fun !

さて、ここでようやく本題に入ります。本題とか忘れましたよね。ははは。

なぜ今自分はマネジメントという仕事を楽しめているのか、どういう思想を有しているか、どういう認知をしているから、どういう価値基準を有しているから楽しめているのか、という問いに対して、自分なりの答えを出すことです。

これまで、すごいいろいろ書いてきたわけですが、結論は超シンプルで「作るのって楽しいから(Making is fun !)」です。これに尽きるなと。


マネジメントって作る/創る/造る仕事、MAKEという役割を担う仕事なんだと思うようになって楽しめるようになったんだと思います。

LEGOみたいにゼロベースでイメージを形にしていくような「つくる」もあれば、ガンプラみたいに手順通りに作ることに没頭していく「つくる」、かっこいいポーズを「つくる」もある。いろんな「つくる」があって、つくる行為はいつも楽しい。

「楽しさ」のような名詞で捉えるのではなく、「楽しむ」という動詞でとらえる。特定の行為に要素分解せずに全体を楽しむ。

僕にとって、つくることは、そういうことを無邪気に、気持ちの純度を高い状態でやる、ということなんだなあと、こうして長い道のりを経て今感じてます。

別の言い方をすると、心技体すべて組み合わせて、様々な試行錯誤と創意工夫によって、MAKEを極めていくことがマネジメントの醍醐味である、といもいえます。いやー、こりゃ大変。僕もぜんぜん道半ば、というか、常に道半ばというこの状況をどう楽しんでいくか、ということをずっと考えていく、悪戦苦闘していく、七転び八起きしていく、って感じなんだろうなあ。やれやれ。

あー、長かった。でも、書いてだいぶすっきりしました。自分が考えていたことはだいたい書けた気がする。満足満足。ということで、こんな感じで終わりです。


パクチーと豚バラ肉の餃子、すげえおいしい。

最後になりますが、ここまで読んでくれた皆様に感謝の意を込めて、パクチーと豚バラ肉の餃子のレシピを紹介します。最高においしいのでおすすめです。

  1. 豚バラ肉(薄切り)300gを適当に刻んだものと、パクチー100gを刻んだもの(茎も入れちゃう)をボウルに入れて、をどさっとひとつまみ入れて混ぜる(塩は大目の方が肉の粘りが出るし、味がしっかり出ておいしい)

  2. ごま油大さじ1お酒大さじ1を入れてさらに混ぜる。あれば魚醤もちょっと入れてもよし。

  3. 市販の餃子の皮でくるんで焼く。

タレはレモンの絞り汁に塩コショウを溶かしたものがいいかと思います。ということで、みなさま、ぜひご賞味ください。

ということでした。ここまで読んでくれて本当にありがとうございます。僕はもう書いたことで満足して、また全部忘れてしまうだろうなあと思います。そして、また次の関心事を探していくんだろうなあ。。

そんな感じでした!

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