映画「ケイコ目を澄ませて」 美しいケイコの音
こんな「はい」を聞いたことがない。
「つぎのしあい、たのしみだね」と会長の妻(仙道敦子)に言われたとき。
耳の聞こえない彼女は頷くだけでいいのに、声に出して「はい」と言った。
ケイコの厚ぼったい背中と、自分で塗った蒼いマニュキア。
世界でいちばん小さくて、いちばん美しい「はい」。
…
鏡前で会長(三浦友和)とシャドウしているとき、ケイコの目に涙が溢れた。
引いた拳を頬ギリギリまで寄せるのは、ガードのためなのか、涙を拭いたいためなのか。
ケイコがなぜボクシングをしていて、なぜボクシングから逃げようとして、なぜボクシングに戻ってきたのか、観客の私にはわからない。
彼女は何も言わないから。
でも、わかるような気もする。
言葉ではわからないけれど、ケイコの周囲の人や夕暮れの景色を観ているとわかる気がする。
「一度お休みしたいです」と書いた手紙をケイコが自分で握りつぶす音が劇場に響く。
それは彼女には聞こえないはずの音。
それは彼女にもきっと聞こえている心の音。
下町の古いジム。
リングに光が差し込み、グローブを構えるケイコの横顔が輝き、トレーナーが涙を拭い、リング下のふたりがケイコのステップに呼応する。
光に反射するホコリすらまばゆい。
首都高と高架橋が走る荒川。
街の音。鳥の声。
ざらついた夕暮れ。
東東京が愛おしい。東東京が好きになる。
KOされた試合。
どうしても勝ちたかった試合。
でもケイコは何に負けたんだろうか。
何かに負けたんだろうか。
「人間としての器量がいいんですよ」と会長が言った。
幕切れ間際、耳を澄ますと街の音の隙間から縄跳びの音が聞こえる。
ケイコがまた始動した。
美しいケイコの音。
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