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豆腐ステーキがご馳走で何が悪い

僕が実家に帰り、食卓の上の晩餐に箸をつついていると母はいつも決まったように、「普段ひもじい食事をしてんだから、たくさん食べてきな」と言う。

一人暮らしをはじめて月日が浅い頃は、その言葉に首を大きく縦に振った。一人で食事を作るようになって改めて、母が作ってくれた毎日の食事の美味しさに感謝するばかりで、「自分はなんてひもじい暮らしをしているのだろう」かと素直に思った。

しかし、つい先日所用で実家にまた戻った時は違った。食卓を囲んでいる最中、母がいつもの言葉を言うと、無意識につい「別にひもじくなんかないよ」と言い返してしまった。

実家を出て早半年。自分で言うのもなんだけど、料理の腕は上達して、毎日おいしいご飯を食べて幸せに生活できるようになっていた。だからだろう。「ひもじい食事」と言われたとき、俺は毎日めちゃくちゃうまくて健康的な飯を食べて幸せなのに何勝手に不幸せだと憐れんでいるんだ、そう思って少し怒りのさざ波が立ってしまったのは。

だけど、その日のこの一幕を振り返ったとき、不意に別の記憶が海馬の奥から浮上してきた。

それは7月のことだった。21時ごろ仕事の帰り道で立ち寄った駅近くの業務用スーパーで、中学生くらいの男の子と母親が仲睦まじく一緒に買い物している光景が目についた。

母親は1箱30円ばかりの木綿豆腐を3箱取ると、「豆腐ステーキを作ってあげるよ」と息子に微笑み、息子は「ほんと!やったー!」と無邪気に喜んでいた。

豆腐ステーキくらいでそこまで喜ぶか?僕は内心で信じられない気持ちになった。

でも男の子の喜びように取り繕った感じは一切なくて、本当に心からの言動にしか見えなかった。

きっと、豆腐ステーキがこの家族にとってのご馳走なんだ。そのくらい貧しい暮らしぶりなんだろうな。豆腐なんかじゃなくて、おいしい牛肉のステーキを食べさせて上げられればなと、僕は心の中で勝手にその親子のことを憐れんでしまった。もしも僕の心の声が漏れ出ていたら、「私たちは人さまから憐れんでもらうほど落ちぶれていない」みたいな言葉で怒りを呼び起こしてしまっていただろう。

これは母が僕に「ひもじい」と言って、僕が少し腹を立ててしまった構図と同じなんじゃないかと思う。

断片的な情報。母の場合は「一人暮らしの独身男」という属性から僕の食生活がひもじいと決めつけ(実際ひもじい時はあったし、今の僕の食生活も母にとってはひもじい分類に入るかもしれない)、僕の場合は「豆腐ステーキに大喜びする親子」という視覚情報でその二人をひもじいと見て、上からな態度で憐れんだ。

もしかするとその親子は菜食主義者なのかもしれない。タンパク質には大豆をはじめとした植物性の食品を選び、豆腐ステーキはまさしく肉の代わりになるご馳走だと推理することが可能だ。(僕は菜食主義に関する学習が足りないから、100%偏見で考えてしまっています。菜食主義の方々の実際の食事の価値観と相違してしまっていたら申し訳ありません。)

それかその母親の得意中の得意料理が豆腐ステーキで、豆腐の柔らかさとクリーミーさにジューシーなソースが絡む絶品ものなのかもしれない。正直、僕は豆腐ステーキという料理をほとんど口にしたことはない。豆腐料理で一番好きなのは、祖母が作っていくれたひき肉を和えた甘辛煮だ。(正式な料理名はわからない)

あるいは本当に貧しい親子なのかもしれない。夜遅くに値段が安い業務用スーパーに赴いていたし、母親は年齢の割にいたく年老いて見えた。(これも偏見に他ならないが、第一印象としてそう目に映ってしまったのだから、偽りなく語らせていただく)。だからといって、その親子のご馳走が豆腐ステーキであることがなんの憐れみの対象になるのだろうか。母と子が豆腐を持ちながら浮かべた笑顔は、通りすがりの僕が深く記憶に刻まれるほど、純真に輝いていた。

例えば貧しさが理由で、その男の子が夢を悲しくも諦めなければならない現実にぶつかってしまったのなら、僕らはその境遇を憐れみ、そういう悲しみを繰り返させぬために民主主義の一役として一票を投じる先に考えを巡らすべきなのかもしれない。

しかし、貧富の在り方にかかわらず、その人たちが日々を笑うために獲得した幸せや趣向を断片的な情報や偏見で他人が上から目線に憐れんだり否定したりするのは余計なお世話というものに違いないと僕は思った。

きっと僕は独身の間は実家に帰るたびに「ひもじいご飯を食べているんだろう」と母や祖母になじられることになるだろう。そして、(そんな予定は微塵もないが)結婚してお嫁さんをもらい受けると、「美味しいご飯を作ってもらいな」と言われる予感がある。

そんな言葉たちに対して真っ向から反論するつもりはない。というかそういった話題からでも親子のコミュニケーションが生まれるのはとてもありがたく思うくらいだ。先日はつい少し言い返してしまったが、これからは感情的にはならず、僕が送っている日常のありのままを報告して安心させるのが一番よいであろう。本心ではもちろん「余計なお世話だ」とか、「嫁ちゃんにだけ料理をさせるものか」などと思うこと間違いないが。

今回のことで僕が得た教訓を一言でいうと、自分が思う幸せの在り方が誰かのそれと一致するわけではないということだ。貧しかろうが金持ちだろうが、独り身だろうが所帯持ちだろうが、その人が心から笑える幸せは決して誰からも憐みを受けるべきものではない。

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