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カーテンの力(チカラ)

新居に住み始めて4ヶ月弱、ようやくカーテンが届いた。もともと買う予定はなかったが、付けてみると思いの外の効力が発動した。

今回はカーテンが来る前と後の変化を呟きたいと思う。コロナの影響で家での時間が増えているからこそ、カーテンが与える力(チカラ)は暮らしに不可欠だ。

カーテンなしの生活

カーテンが無くても生きる上で大きな問題はない。

アパートの窓はすりガラス。窓を閉めてれば外からは見えない。シャッターも付いていたから、いざとなれば外界と室内を完全に遮断できる。

カーテンなんて外から部屋の中を見えなくさせる道具くらいにしか思ってなかった。金の無駄だし、カーテンは要らないなって決めつけた。

この理論を友だちに展開しても「シャッターがあるからいらないね」って共感してくれて、自分の考えに自信を持ってしまった。

当初はなにも困らなかった。

昼間は柔らかい春の日差しが舞い込んで、夜は静寂な暗闇がすりガラスの向かい側にぼやけて映る。

だが、夏が近づくにつれて、射し込む日差しが鬱陶しくなっていった。南向きの窓だから眩しさはないが、問題は暑さだ。鋭い日差しが窓を透過すると、どうしても外からの熱が入る。僅かな温度差かもしれないが、人間にとって気温は1℃変わるだけで全然変わる。

冷房をつけると多少はマシになるが、効き目が悪い。28℃前後の設定だと日差しの熱に負けて、なかなか快適にならない。設定温度を下げれば地球にも財布にも優しくない。

だったらシャッターを使って日差しを遮断すればいい。

だがそうすると別の問題が発生した。

シャッターを閉ざすと当たり前だが光が全く入らなくなる。何が問題かって?光が完全遮断されると、暑さはなくなるが明るさもなくなって、気分が鬱になってしまう。

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人は快晴で気持ちのいい光を浴びると心が元気になり、対して雨の日が続くと鬱屈になるのは誰しもが経験しているところだろう。光がないと人は眠りから十分に覚醒できない。光があって人は太陽の位置を肌で感じ、心身の調子と合った生存サイクルを構築できる。

要するにシャッターはカーテンの代わりになれない。LED電球も太陽の代わりにはなれない。

一応フォローすると、シャッターが何の役に立たないわけではない。シャッターが活躍するのは嵐の日だ。雨風が吹き荒ぶ轟音が窓ガラスをゴーゴー揺らして、すごく不安になったとき、シャッターで外の情報をシャットアウトすると、音が小さくなって、盾で守られているように自宅の中が平穏になる。

ブラインドの生活(実家時代)

思い返すと実家の自室に付いていたのはカーテンではなく、青のブラインドだった。

引っ越して来た時から備え付けられていたからなんやかんや10年間使い続けたけど、あまり好きじゃなかった。

はじめは気に入っていた。羽のいちまいいちまいが艶々に輝いていたのにまず感動した。幾重に連なる青い羽は窓から受ける光を若干青色に染めて内に取り込んでくれて、とてもスタイリッシュで格好いい演出装置だった。

しかし新居に新鮮味が感じなくなるのと同じ時くらいに、艶やかな羽の表面に灰のような埃が積もりだした。艶は消え、取り込む光に青さが失われた。

頑張って拭いたこともあった。だけど羽は何十枚もあって、縦糸で区切られているから、全て隈なく磨こうとすると1時間以上もかかる。残念ながらそれを定期的にできるほど均整な性格は持ち合わせられなかった。

そのうえ、掃除の途中にちょっとした不注意で羽のうち三枚が直角に折れ曲がってしまった。折れ目を力任せに戻そうしても、形状が記憶されてしまって戻らない。躍起になって無理やり直そうとすると、今度はあらぬ角度に歪んでしまい、羽の形がブサイクになった。

折れ曲がってできた隙間からは外からの光が直接はいる。別に生活上の不便はない。でも、与えられた役目を十分に果たせない不具が自分の空間に常にあるのは、猫背を治せない惰性やもどかしさと同居しているような気分を無意識に植え付けられて、たまに嫌になった。

これからはブラインドの生活はやめだ。一人暮らしを始めるなら素敵なカーテンにしようと心に決めていた。

カーテンがある生活

これまで耐え忍んできた問題は解決された。

夏の鬱陶しい日差しは白のレースカーテンを間に挟むことで暑さが緩和され、明るさだけが取り込まれるようになった。

空調の効き具合も劇的に改善された。外からの熱はガードされ、冷房の冷たい空気も外に逃げず室内に留まるようになった。

快適。快適。カーテン万歳!って気持ちだ。

だが、これは想定内の効果だ。

カーテンを付けて想定外に驚かされたのは、それだけで心に安心感が灯りはじめたことだ。窓はすりガラスだから外から室内の様子は見えない。頭ではそう理解していたけど、寛ぐはずの家に居る時も常に無意識の部分で、自分が外からどういう視線で見られているのかを意識して、心を張り詰めていた。

逆に網戸にするときは外から丸見えが当たり前だから開き直れた。誰の目がいつこっちに向いても恥ずかしくないようにしていればいいんだって思っていたけど、それも心の張りつめであるには変わらないんだって、後になって気が付いた。

まったく窓の前に布地があるだけで何たる安心感か。外からの視線を気にしなくなるだけで、心持ちがこんなに軽くなった。

この場所は安全。誰からも見られない、自分だけのテリトリー。

すりガラスは確かに外から中の様子を隠す。だけど、中にいる人間はガラスにぼけて映る様から、外の存在を否応にも意識してしまう。故に、すりガラスは内と外を分かつ境界線にはなり得ない。

対してシャッターは完全な境界線を引ける。しかし、その境界線があまりにも強すぎて、人を内に閉じ込めすぎてしまう。窓から光や風を浴びる。ふとした時に窓から空を見上げる。それだけで人は世界の無限な広さを感じ、鬱屈してしまう気分が晴れやかになる。シャッターで完全にシャットアウトしてしまえば、人は室内の窮屈さに連動するように心から明るい光を失う。

カーテンは外と内を分かつ境界線にもなり、かつ光や風を取り込んでくれる。とても柔軟で取り扱いやすい、一石二鳥の代物だ。

気持ちのいい春晴れのように、境界線なんて要らない日もある。もしも光や風や空を一身に感じたければ両手でカーテンを開け放てばいい。

嵐の日のように、強い境界線が必要になれば、力強くシャッターを閉じればいい。シャッターや雨戸がなくてもカーテンを閉じる割合で境界線の強さは自由に変えられる。

僕の場合、カーテンは無くても生きていくうえで困らないものだった。だけど、あったらこれ以上なく助かるものだった。

一人暮らしの生活費の多さにびびり、目先の節約志向にこだわるあまり、無くても生きられる物は意識的に排除してきた。しかしその思考では持っていたらよりよく生きられる物も排除してしまうことがある。

無くても大丈夫じゃなくて、あったらどうだろうかという思考と想像を持つことが大事だと今回の経験で強く思わされた。

カーテンを取り付けて起きた心の変化でした。


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