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聖者などいない

そもそも誰も傷つけない人間などいないと思っている。

どんなに優しい人でも、誰かを傷つけている。悪意ばかりが原因ではない。優しさや無意識の内の言動、常識だと刷り込まれたものさえ原因になりうる。

そもそも人間とは、母の腹の中で新たな人間として形成され無理やり小さな穴を押し広げ誕生するか、裂いた腹から産まれるものだ。母も腹を痛めているが、そもそも新生児本人に許可なく生み出される。許可の取りようなどないから、当たり前の話だ。父親は何を痛めるかというと、日本の場合は大抵懐を痛めるのだろう。そして、家庭を守るという責任を背負わされる。

ここまでの話で傷付いた人がもういる筈だ。私は誰も傷つけてはいないとか、悪意がないのに責められないといけないのかだとか、悪意を向けられるだけの原因が相手にあるのだとか。上に書いた家庭についての話も、自分は違うとか色々と言いたいことがある人もいるだろう。

元々私は、誰もが他人を傷つけ生きていく運命から逃れられないと開き直って生きてきた。そもそも動物は他の生き物を食べなければ生きていけない。菜食主義者だって植物を食べている。そもそも痛みを感じる機能がなければ痛めつけてもいいのだろうか?

ただ私だって、優しくありたいとは思っている。別にむやみやたらに他人を傷つけたいとは思わない。出来れば上手くやりたい、嫌われたくない、輪から浮きたくない、普通に多くの人と仲良くしたい。

けれど不器用で傷つきやすく、無神経かと思えば変なところで考えすぎる私は、すぐに他人を傷つけてしまう。そして、ネガティブな言葉を吐けばネガティブな気持ちを分けてしまうこともある。黙って静かに息を殺していられればいいのに、喋らずにはいられない。結局寂しいし、誰かに自分の考えを知って欲しいと思ってしまう。

幸福感を得るために足掻けば足掻くだけ、人を傷つける。繊細だから、誰とでも仲良くできるわけでもない。上手く喋れない。何が他人を傷つけるかわからない。

私を傷つけた相手は、どうやらそんなことも気にせず今日も生きている。誰もが他人が何によって傷つくかわからない。傷つけられれば、腹を立ててついキツイ言葉が口をつくことだってあるだろう。相手を不快にしたと謝ることだって、時に相手を傷つけることがある。自分の態度が相手にとってそれほどまでに高圧的だったのだと自覚する時、誰だって心がざらつくものだ。弱者も強者も皆、意識的だろうと無意識的だろうと他人を傷つけている。

今私はとても怖い。他人を傷つけることが怖い。私が傷つけた相手が、ナイフを向けてくることだってあるだろう。存在し意識がある間は、傷つくという感覚を避けられない。そもそも他人の意識の内に入った時点で、こちらに非がなくとも相手を苛立たせることがある。外に出れば、SNSをやれば、他人の視界に入る。声を出せば、生活をすれば、私という存在が認識されてしまう。

そもそも、どんなスターもヒーローも、その正しいあり方が誰かを傷つけることがある。他人の幸せに、屈辱に近い妬みを私は感じることがある。

聖者なんてこの世にはいない。けれど、進んで傷つけられたいと思う人もあまりいないだろう。他人に大きな悪意を向けるには、それだけのエネルギーを持つ動機が必要だと思う。他人に悪意をぶつければ、それ相応の反応が返ってくるのは想像に易い筈だ。

ただ逆に、生まれるよりも前、意識を持たず存在すら知られなかった頃には誰もが、どんな凶悪犯すらも聖者と言えるのかもしれない。

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