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国語で漢文を習う理由に気づいたら、英語がわかった話 ~There is 構文編~

はじめに

 中学国語から突如としてその姿を現す漢文。「レ点」や「一二点」といった"返り点"のルールを覚え、日本語に書き下して内容を理解する。そんな繰り返しが国語の授業で行われる様子に、

「どう考えたって日本語ではなく中国語じゃないか」

 そんなことを考えながらぼくは漢文を勉強していた。ところがある時、漢文が国語に含まれる理由に気づくと、さらには英語の理解へと辿り着いてしまった。今回はそんな体験に基づいたお話である。

世界よ、これが日本のやり方だ

 学生時代のある日、英語の学習中にこんな事実を知った。ヨーロッパの文化が大量に流入してきた明治時代の日本では、英語を日本語として読む取り組みが盛んに行われていたという。ここで、別の項でも取り上げたことのある次の資料を見て欲しい。

ことば研究館「明治時代には、漢文のように英語を訓読していたというのは本当ですか」より

 一目見てわかるとおり、国語の教科書で見てきた漢文の姿に非常によく似ている。そして、この事実を知った時のぼくの率直な感想は、「"英文法"という英語の読み方があるにも関わらず、なぜ当時の人は、英語を日本語の読み方で読もうとしたのだろうか?」というものだった。 

 しかしぼくはすぐに、この疑問が適切なものでないことに気がついた。

 そう、当時の日本には"英文法"がまだなかったのである。正確には、間違いなく英文法は輸入はされていたものの、その解説が英語でされているために、当時の人はあの手この手を使って、まず英語を日本語にして読む必要があったのだ。

 これと同時に、漢文が国語に含まれている理由にすぐに思い当たった。

 つまり漢文も同じだったのである。まだ日本文明がよちよち歩きだった頃、中国から様々な考え方や社会の仕組みを伝える漢文が日本へとやって来た。しかし、当時の日本人にはその読み方がわからない。だから、漢文を日本語として読もうと試みたのだ。その成果はやがて日本語の一部となり、漢文は日本語を構成する重要な存在となった。だから漢文は国語に含まれているのだ、と。

 更に、ぼくは漢文を通じて英語の理解を深めることになっていく。

※この項で取り上げた資料については、「ハンバーガーはハンバーガーにふさわしい食べ方で」の項で紹介した別のエピソードでも登場しています。

そして、There is 構文

―「There is 構文は"存在"を表す第1文型で、主語は is の後に来るものです」

 これは高校英語の初期に学ぶことになる、大学受験ではよく問われる知識なのだが、このThere is 構文自体は中学校で習うものである。高校ではそこに尾ヒレとして、文型と主語についての知識が追加されるのだ。でも悲しいことに、その理由について教えてくれる先生とぼくは出会うことができなかった。

―「漢文と英語の文法は似ています」

 これも、ぼくが中高生時代に複数の国語の先生から教わったことだ。おそらく、同じ経験があるという人は多いのではないだろうか。でも、これもまた不運なことに、二つの文法の具体的な類似性を教えてくれる先生とぼくは出会うことができなかった。

 いや、正確には、「英語が主語+述語動詞という形式を基本としているのと同様に、漢文でも主語+述語動詞が基本形です」という話をしてくれた先生はいたのだが、「そんなの、日本語だってフランス語だって基本形は同じではないか」と思いながらぼくはそんな先生の話を聞いていた。

 ところがこの「There is 構文」と「漢文と英語の文法的な類似性」、一見すると何の関係もない2つの事柄が、ある日の漢文の授業中に化学反応を起こしたのである。

 それは、授業中で次の漢文を見かけたことがきっかけだった。漢文に苦い思い出のある人もここは少しだけ我慢して見て欲しい。

世有伯楽
日本語訳:世の中には伯楽(=良い馬と悪い馬を見分ける人)がいる
天下無馬
日本語訳:天下には馬がいない

韓愈『韓昌黎集』「雑説」より

 ここで各文を構成する漢字に注目しながら、教科書で習う漢文のルールを無視して読んでみる。すると1文目は「世の中には、いるんだよ、伯楽が」と読めるし、2文目は「天下には、無いんだよ、馬が」と読むことができる。

 そこでぼくはこんなことに気づいた。漢文では「何かが有る/無い」という表現をする時に、『場所』→『有る/無い』→『有るもの/無いもの』の順番で書くのだと。

 つまり、1文目では『場所』=世→『有る』→『有るもの』=伯楽の順に並んでおり、2文目では『場所』=天下→『無い』→『無いもの』=馬の順番になっていることに気づいたのである。

 ここでぼくの頭の中に引っ張り出されてきたのが英語の There is 構文である。この構文の最初の There が『場所』を表す英単語だということに気づいたぼくは、こんな理解をつくった。

 ―なるほど、漢文や英語を使う人は、先に『場所』を伝えることで、『何かがある』という情報を"効率的"に伝達しようとしたのか

 ここでぼくの言う"効率的"とは何か。例えば、誰かが二人で話している状況で、片方の人が「りんごがね…」と話し始めた場合を想定してみる。すると、その言葉を聞いた人は、「りんごがどうしたんだ?安かったのか?おいしかったのか?それとも…」なんて言う具合に、様々な予想をしなければならない。つまり、めんどくさい。

 ところが、「こんな場所に有ったんだよ…」と相手が話し始めてくれれば、「そこに何が有ったの?」ということにだけ集中して聞いていればいい。つまり、「何かがあった/なかった」を相手に楽に伝えるためには、「こんな場所にね…」という言い出しの方が都合がよい。

 「こんな場所に」の部分については、漢文では例文のように「世」とか「天下」のように具体的な場所が入っている一方で、英語では There という「場所」を表す単語が仮に置かれ、具体的な場所については最後に提示されるという違いこそあれ、これこそ『漢文と英語が似ている』ことを示すよい例だとぼくは思っている。

 その理由についてぼくは、「人は怠け者だから」という理由が大きく作用しているのではないだろうかと考えた。ぼくはいずれの言語の専門家でもないため断言はしないが、少なくとも、そのように考えたことは、ぼくの語学学習においてはとても都合がよかったのだ。

 There is 構文に関してこのような理解をつくっておくと、英作文の際に直面することになる、 There is an apple on the table. がなぜ自然な表現で、An apple is on the table. が英語としてはなぜ不自然だとされるのかがよくわかることになるのだが、これについてはまた別の機会に紹介しようと思う。

おまけ

 There is 構文以外にも、漢文と英語の類似性を感じられるものとして、漢文での「使役」表現を学ぶ際によく引用される『虎の威を借る狐』のエピソードで有名なこんな漢文がある。これ以上漢文を目にするのは御免だという人は、以下の内容は読み飛ばしても構わない。

天帝使我長百獣 『戦国策』より
日本語訳:天帝が私を百獣の長にしたのです
→わかりやすく英語風に区切ると
天帝 使 我 長百獣 … ①
→これを英語に置き換えると
天帝 let 我 長百獣 …②
→すっかり英語に置き換えてしまうと
The Heavenly Emperor let me be the lord of beasts. …③
※ ここでは made を使うのがより適切だと思うが、「使役動詞」を意識するために敢えてletを使用している。
※②の段階までできれば、漢文ではあまり困らないのではないかと思う。

 これに書き下しという作業が加わってくるのが学生にとっては骨の折れるところではあるが、とりあえず意味を取るだけ、ということであれば、これで事足りてしまう。

 このように、漢文を英訳してから意味を取る、という方法は、ぼくが大学受験生の時に思いついて実践していた方法である。しかし、英語を得意とする高校生にはとても好評なので、主だった漢文についてはこの読み方で読めてしまうことを紹介することにしている。

最後に:アインシュタインと怠け者

 ぼくがよく足を運ぶインターナショナルバーには、アルベルト・アインシュタインのこんな言葉が書かれたポスターが掲示されている。

In the middle of difficulty lies opportunity.
困難の中にこそ、機会は存在する。

Albert Einstein

 これを見るたびに、ぼくは高校時代に There is 構文 に関して気づいたことを思い出す。もちろんこれは There is 構文ではない。しかし、「何かがある」という意味を表しているという点では There is 構文 と共通している。

 ここで敢えて、 Opportunity lies in the middle of difficulty. としなかったのは、やはり、「opportunity(=機会)がどこにあるのか」が、彼が最も言いたかったことだからだろう。

 英語とは、伝えたいことをより効率的に伝えるための工夫が重ねられた言語である。効率的とは無駄がないということだ。そして、無駄を嫌うのは怠け者の特権なのである。

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