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無性愛者でも「愛すること」は知っているから悲しかった

5月後半のnoteの特集は「多様性を考える」らしい。家族やパートナーシップのあり方、自分のこと、何でもいいそうなので、私は自分のセクシュアリティについて、心の整理もかねて少し文字にしようと思う。

私は、おそらくアセクシャルだ。
他者に対して性的欲求をほとんど抱かない。恋愛感情…も、あるかどうかちょっと微妙なところだ。
おそらく、と言っているのは、もしかしたら今後新たな出会いをすれば価値観が変化するかもしれないし、まだ自分が何者なのか決めつけすぎたくないから。
ただ、現時点ではアセクシャルだ。

自分がアセクシャルかもしれないと気づいたのは、当時恋人がいる時だった。
一緒にいると楽しいし、人としてはすごく好きなのに、恋愛対象としての付き合い方、ふれあい方にどうしても嫌悪感が勝ってしまう。
今日は何もしなかった、別れて帰宅する際、その事実にホッとする自分に嫌気がさした。

あなたに、これ以上恋人としての付き合いを求めることができません。
別れる時、泣きながら打ち明けた。この人のことは大好きなのに、こんなことを言わなきゃいけない自分のちぐはぐな価値観が嫌だった。
付き合ったきっかけも「みんなにちゃんとした恋愛ができる自分を証明したかったから」という、世間体的なことしか考えていなかった私。別れる時も、世間と比べて「普通じゃない」自分に落胆した。

あの人と別れて、しばらく経つ。
現在私には恋人はいない。周りは結婚報告、出産報告が増えた。
親友や姉、ごく一部の信頼できる人達には私のセクシャリティのことは伝えている。親には、まだまだ言えそうにない。これを言ったら、父や母はどんな顔をするのだろう。ひどくがっかりさせてしまうだろう。たくさん愛情を与えてきたはずの娘が、人間の三大欲求の1つである性欲が乏しいなんて。

でも、私もとても悲しかった。
悲しくて何度も何度も涙が出た。
「愛する」ことは知っているのだ。愛情をもらったり、与えたりすることがどれだけ幸せなことか、家族や友人、恋人にも教えてもらった。
ただ、それは性的な感情に繋がらないのだ。
ごく一部の人に胸の内を打ち明けたことで、ずいぶん心が軽くなり、自分の価値観を受け入れるようになったけど。
できることなら、私も「愛し合う」関係を育みたかった。

多様性や個人が尊重されるようになり、少しずつ世の中はマイノリティにも生きやすい世の中になっているとは思う。でも、私はまだまだ「愛したい」感情と「性愛になりたくない」感情のはざまで葛藤しそうだ。

でも、でも、私は私なりの「愛してる」価値観を諦めたくはなくて。
いつか、私の心を受け止めてくれるパートナーが現れるかもしれない。その希望を捨てたくない、と思っている。

できることから少しずつ。
今私を支えてくれる人たちに、私ができる限りの愛情表現をするようにしている。
私なりの愛する気持ちをまっすぐ伝えていれば、私なりの人との出会いができると信じて。

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