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努力したと言えること、そのものがきっと結果なのだけれど

浪人生活が終わろうとしている。本当は結果が出てから振り返りたかったんだけど、なんだかんだで結果主義な私はきっと、自分の努力を結果で測ってしまうから、それはちょっとずるいかなあって思って。良い結果だろうと、悪い結果だろうと、バイアスがかかった状態でこの一年を見ることになる前に。


そう、あんまり認めたくはないけれど、私は多分、結果主義なんだと思う。正直私は、物事や人を見るときのものさしが結果オンリーな人はどちらかといえばご遠慮願いたいなあとか思っている。物事や人の価値は、結果だけじゃないってことを信じていたいから。

でも結局、結果もとい、数値化される、客観的な指標、みたいなものがこの世の中では随分と幅を利かせていると思う。受験生の場合、模試の点数、偏差値、判定。そして、入試の合否。一位がいれば最下位がいて、合格者がいたら不合格者がいる、ただそれだけの事実。これがなんて言ったって、比較しやすく、評価もしやすい。誰が見ても、同じように価値を決められるのものなのだろう。

そもそも、浪人生自体があまりにも結果主義な生き物で、終わりよければ全てよし、って言葉がこれ以上ないくらいにピッタリハマる生態すぎるんだ。受験のゴールは合格することじゃないとか言っておいて、結局結果でしかこの1年の努力を測ってもらえないの、なかなかに皮肉だと思う。

結果を求めてくる世間に対する切り札は、きっと結果しかない。だからやっぱり、結果主義嫌いーなんて言っておいて、結局私も私自身に結果を求め続けていたと思うし、今も求めている。自分の努力が果たして正しいのかどうかわからないから、結果にしか縋れない。受験生としてはある程度健全なのかもしれないが。


このようなスタンスで受験生を続けていると、ある程度経った頃に一つの疑問が生まれる。

結果が出なかったら、その努力は、果たして努力と言えるのであろうか。

結果が出ないならそれはまだ努力とは呼べないって言いたがる私がいる。まあ正直一理あるじゃん。勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。上手く言ったもので、結果が出ないということは、何かが決定的に足りていないってことだと思うんだよね。この「何か」が単語力とか数学力とかのわかりやすいものならまだしも、落ち着きがないのが悪いのかなとか、普段から同じことで何回も怒られているもんなあとか、そういう人間性っぽいところまで介入してくると本格的にどうしようもなくなってくる。

でも、多分だけど、自分に厳しくすることと、自分が今までやってきたこと、努力してきたことを否定することは違う、と思うんだ。結果が出なかっとしても、今まで努力してきたことは無駄にはならない、さんざん色々述べておいて結局綺麗事かよって思うかもしれないけれど。でも、私には入試の日に圧倒的な自信がありました。それは、自分なら絶対に落ちないとか、間違えないとか、そういう自信ではなく、今まで努力はし続けたと言い切れる自信、そして、ここまで努力したのだからどんな結果だろうと受け入れられる、という自信。それだけは自信があった。その感覚はね、忘れちゃいけないと思うんです。まあ、合格発表日3日前にして、どんな結果だろうと受け入れられる自信はゆらぎつつありますが、それは多分単純に怖いだけ。

だからもし、第一志望の結果が出て、それが思うような結果じゃなかったとしても、自分がやってきたことは無駄じゃないよって、思います。どうしても、結果を結果として突きつけられてしまうから、今までに費やした時間も努力も何もかも、否定されたような気持ちになると思うけれど。自分の受験番号がなかったときのあの気持ちはもう二度と味わいたくないけれど。もうここまでやってきたのだから。頑張ったって言い切れるから、正直悔いはそんなにないかな。



ここから先は、ちょっと自慢みたいになるけれど、約11ヶ月の浪人生活で、55冊のノートを使ったし、誰よりも(というと盛り過ぎかもしれない、多分校舎でTOP5~10くらい)論述の添削とか英語の添削とか出したし、過去問もある分だけ解き散らかしたし、あとはまあ当たり前かもしれないけど授業はほぼ出席して予復習もしたし、体力が限界を迎えた時以外はだいたい毎日開館から閉館まで予備校に缶詰になった。食事と風呂と洗面はリスニングしながら、ドライヤーは英語の例文暗記をやりながらだったし、何故か朝の6:15から勉強していたし、ボアブルゾンのポケットには常に単語帳が入っていた。まあとか言いながら、(予備校にいる間はスマホはロッカーに軟禁していたけれど)家にいるときはちょいちょいLINEしたりインスタを見たりYoutubeを見たりと普通に遊んではいた。結果として(日中外にほぼ出なかったため)肌がワントーン白くなり、服は3着のパーカーとズボンをルーティンするようになり、流石に髪の毛は最低限の寝癖直しはするものの、眉毛は基本野生のままで、おまけにすこぶる肌の治安が悪くなり、とてもじゃないが18歳の女子とは思えない風貌だったと思う。とんでもない芋である。まあ今もだが。

流石に自分語りが過ぎるのでここらへんで止める。今書いてて思ったんだけど、やっぱりわたしは結果じゃなくて過程に重きを置きたがる気がする。正直模試ではそれなりにいい成績を取っていたけど、それらは自慢するようなものではないと思うし、なんだかそれらは今でもまやかしのような気がしている。そもそも入試も模試も、いままでやってきたことのごく一部だけを切り取って評価しているにすぎないのだから、それだけで何か判断を下してしまうのはちょっと暴力的であるとすらも思う。努力は必ずしも報われないし、成功した人は努力をしていたとは限らない。ただ、努力をした人が成功する傾向にあって、成功した人は努力をしていた傾向にあるだけ。

数学の共通テストが去年と全く同じ点数だった話は置いておくとして、浪人生として、もちろん私よりも努力した人はいるのは重々承知しているけれど、私なりにやるだけのことはやったと思う。頑張りきったはずだ。


そしてもちろん、私がここまで頑張れたのも、ひとえに頑張れる環境があったからだと身にしみて感じている。
衣食住を提供してくれた親、どうでもいいLINEを送ると生暖かい反応をしてくれる弟、応援してくれる愛する親友、毎日開館時間に予備校に行っていたり、数学や地理など、それぞれの得意教科が尖りまくっていたり、志望校こそバラバラだけれども良き仲間であった友達、なんやかんやでお世話になり続けた高校時代の先生、どんなアホな質問をしても答えてくださった講師の方々、半分くらい人生相談な面談をしたチューターさん。自分がいかに沢山の人に支えられているかを実感した一年だった。浪人なんて、所詮自己満足なのだから。(だって妥協すればどこの大学でも去年入れたじゃんね…?そもそも就職という道だってなかったわけではない。)勉強しかしないニート同然の18歳は1人では生きていけないのである、色んな意味で。もちろん私は私で与えられた環境を精一杯に活かそうとしたつもりだが、そもそもその環境がなかったら何も始まらないのである。メンタルが強いとは言えない私が救いようのないレベルに病まずに走り抜けたのも、彼ら彼女らの存在があったからだ。


本当は合格という結果で恩返しがしたいなあ。


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