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アルゼンチン日記「雪の降る誕生日」

約2年ぶりのことだそうだ。

数日前から、ネウキーノ(ネウケン州の人々)達は、そわそわと落ち着かない様子でいた。金曜日に雪が降ると予報されていたからだ。しかし、天気予報は僕達を何度も裏切った。人々はあり得ないと思いながらも、心のどこかにある淡い期待を捨てられずにはいられなかった。

金曜日の12時30分頃、料理をしていた妻が叫び声をあげた。

「雪よ!雪が降ってきたわ!」

妻が遮光カーテンを慌ただし気に開けた。窓に向かうと、ねずみ色の大きな雲から、ひらひらと粉雪が落ちていた。10分もしない間に、粒の大きな雪がスピードを増し、地上に降ってきた。

僕達は急いで上着を羽織り、外に出た。不思議なことに、隣人のほとんどが外にいた。まだニュースになっていなければ、外出禁止中なので口伝えも難しい。みんな淡い期待を抱いて、何度も窓の外を眺めていたのかもしれない。

遠くで子供たちが大声で歌っている。聞き覚えのあるメロディだなと思っていると、隣人ゴンサルオの娘キアラが一緒になり、大声で歌い始めた。

リブレ・ソイ、リブレ・ソイ!

ああ、映画「アナと雪の女王」の「レット・イット・ゴー」だ。ここの子供達は雪が降ると、この曲を歌うのか。僕は妙な親近感を覚えた。

2015年に移住して以来、昼間に本格的な雪が降るのは初めてだ。ニュースによると2年ぶりの雪だそうだが、地面に薄っすらと雪が降るほど積もっただろうか。

4歳と2歳の犬は、雪を不思議そうに見つめていた。鼻についた雪を前腕で払い、まるで優雅な蝶を追いかけるように、雪と遊び始めた。

通りに目を向けると、外で湯気を立てるマテ茶を飲む人がいれば、窓から顔を出して雪を眺める人もいる。大人も子供も雪を待ち望んでいたのだ。

門の前でクラクションが鳴った。隣人のゴンサルオが帰ってきたのだ。パーカーのフードを被った妻エヴェが出てきて、門の施錠をとく。ゴンサルオがミニバンを中に入れ、二人はキスをした。いつもと同じ光景だが、雪が降るだけで、これほどロマンチックになるとは。

「やあ、シュン。雪が降っているな」ゴンサルオが言った。

「うん、雪が降っているね。今日の仕事はもう終わりかい?」

「ああ。でも、これから庭の木材をビニールシートで包まないといけない。濡れたら使い物にならないから」と言いながら、ゴンサルオはミニバンに大きな布をかけた。

雪は何時間も降り続けた。屋根、車、地面の順に薄っすらと雪が積もった。今日という日、ネウキーノ達は、何度も外に目をやったことだろう。小さな白い粒が降るだけで、こんなにも景色は変わるのだ。

スマホで動画を見ていた妻が声を出して笑った。妻が見せてくれた動画では、雪で真っ白に染まった場所で、男がこう言ってた。

「やあ、みんな。ネウケンに雪が降っている。ネウケンに雪が降っていると思うよ」

僕と妻は二人で笑い転げた。

「なに馬鹿なことを言ってるんだ?雪を頭に乗せて、雪が降っていると思うよだって!」

「何度見ても笑っちゃうわ!友達が送ってくれたのよ!」

100日以上の外出禁止で、乾ききった僕達の心には、ひんやりとした雪が心地よく染み込んだ。

雪の日はトルタフリータ(揚げパン)で決まりだ。正確に言うと、雨の日にトルタフリータを食べるのが伝統である。というのも、昔は水の供給が不安定で、雨水を使ってパンをこねていたからだ。

しかし、今では蛇口をひねれば高確率で水が出る。他の州では分からないが、めったに雨が降らないネウケン州では、雨を祝う意味でトルタフリータを食べているように思う。

そういった意味では、雨よりも珍しい雪の日に、トルタフリータを食べてもおかしくない。お祝いなのだから。僕は小麦粉をこねはじめた。

今日は妻の誕生日だから、トルタフリータは僕が用意する。そういえば外出禁止が始まる前、妻は楽観的だった。

「私の誕生日が来る頃には、コロナも収まっているわよ」彼女はこんなことを言っていたし、僕もそう思っていた。でも、アルゼンチンの感染者数は増加するばかりで、外出自粛は7月17日までの再延長が発表された。

誕生日には、妻の家族や親戚、友人が大集合するのが普通だ。しかし、今年はそういうわけにはいかない。集まったのは、ゴンサルオ家族だけ。僕達とゴンサルオ家は、同じ敷地内に住んでいるから、集まっても問題ない。

妻はビデオ通話の対応に忙しかった。家族や親戚、友人などから次々と電話がかかってきたのだ。家族との電話は10分ほどで終わるが、仲の良い友人とは長話をしていた。

妻が親友のシンティアと話を始めた。久しぶりだから、僕も顔を見せると、彼女は満面の笑みで挨拶をしてくれた。

かつて妻はシンティアはモテると言っていたが、その理由はよくわかる。シンティアの輪郭は綺麗な卵型で、少し垂れた快活な目をしていた。真ん中で分けた長い前髪は、彼女の輪郭に沿って落ちていた。

優しくて、彼女がいると花が咲いたように場が明るくなる。初対面の外国人(僕のことだが)の懐にすっと入り込みながらも、適度な距離感を保てる女性だ。

挨拶の頬キスをするとき、チュッと唇を鳴らすのが一般的だ。しかし、シンティアは必ずムアッと言う。ビデオ通話でも、彼女は唇を丸め、ムアッとキスをしてくれた。

あくまでも僕の経験談だが、挨拶の頬キスの仕方で人柄はよくわかる。シンティアの頬キスからもわかるように、彼女は素晴らしい人間だ。

僕達は、しばらく互いの近況について話をしていた。彼女が長年働いていたバーは、コロナウイルスの影響で閉店したそう。その悪い知らせは、僕と妻を大いに悲しませた。

移住当初、お金のない僕達は、よくシンティアの働くバーに行った。というのも、シンティアが好意でビールや料理のサービスをしてくれたからだ。

サービス分のお金を払おうとしても、「あなた達と話せるのが嬉しいのよ。私も飲み食いしているし」と彼女は言い張るばかり。

特別に料理が美味しいわけではなかったが、大切にちびちびと飲むから温くなったビールとチェダーチーズのかかった山盛りのフライドポテトは思い出の味だ。

シンティアの彼氏マクシィが帰宅して、話に加わった。彼は日本のアニメの知識を披露して、僕を大いに驚かせた。ワンピーズやナルト、ポケモン、ドラゴンボール、キャプテン翼、犬夜叉、セーラームーン、そして聖闘士星矢まで見ていたそうだ。

今の20歳代が子供の頃、よく日本のアニメが放映されていたらしい。時代のずれで、僕が見たことない作品も、ここの人々は見ていたようで羨ましさを感じた。同時に、アルゼンチンではネットフリックスでジブリ作品が見れるのに、日本では見られない事実を思い出した。

18時頃、ゴンサルオ家を招いて、妻の誕生日を祝った。僕はトルタフリータとチョコトルタ(チョコレートケーキ)をこしらえ、妻とエヴェもまたケーキを作っていた。

机の上には、ポテトチップとサンドイッチも並び、大人4人と子供3人の小さな集まりには、いささか多すぎる量だった。

伝統を守るのなら、誕生日には炭火焼肉アサドで決まりだ。しかし、外出禁止中の大きな娯楽はアサドであり、僕達はゴンサルオ家と何度もアサドをした。贅沢ながらもアサドが日常になり、少しばかり飽きていた。

気分を変えるため、僕達はピザとエムパナーダのデリバリーを頼んだ。大きなピザ2枚と24個のエムパナーダ。ケーキで腹が膨らんだ僕達には、いささか多すぎる量に思えた。

「頼みすぎたなあ」僕は言った。

「あら、そんなことないわよ。甘いものの後は塩辛いものが必要でしょ」ゴンサルオの妻エヴェが言った。エヴェは冗談を言うと、ウインクをして舌を出す癖がある。

「その感覚がよく分からない」

「俺もだよ。甘いものを口にしたら、食事は終わりなんだ。デザートの後にまた飯を食うなんておかしいだろ」ゴンサルオ言った。

「分かってないわね。別にご飯じゃなくていいの。目的は口直しなんだから。アイスクリームの後にお肉を食べたら馬鹿だわ。でも、ポテトチップスならいいのよ」妻が参戦し、エヴェは妻に大いに賛同した。

結局、僕達はピザ一枚とエムパナーダを8個ほど残した。ここでは夕食の残りを、次の日の昼食に食べるのが普通。昼食を作る手間が省けたわと妻は喜んでいた。

ゴンサルオ達が帰ったら、大掃除の開始だ。雨や雪の日は、靴を履いたまま室内を歩き回ると、家じゅう砂だらけになってしまう。普段なら玄関先で靴を脱ぐのをお願いするが、今日という日に限って忘れていた。

掃除が終わり、シャワーを浴びて、ようやくベッドへ。毎年のことながら、誕生日は疲労困憊で一日の終わりを迎えてしまう。

「君の26回目の誕生日はどうだった?」

「素晴らしかったわ。外出禁止中で、雪も降ったから、一生忘れられない誕生日になったわ」

「それはよかった。去年の僕の誕生日は、アルゼンチン全土で停電と断水したの覚えている?夜になっても電気は戻らなくて、みんなで外でマテ茶を飲んださ」

「色褪せない思い出にはスパイスが必要みたいね」

目を閉じたら、遠くの方から汽笛が聞こえてきた。

「貨物列車もお祝いにかけつけたようだ」

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