【アルゼンチン短編】ガウチョとポルテーニョの恋物語
これは2015年にアルゼンチンへ移住した作者が、現地での生活や人々との触れあいから得た経験をもとに創作した短編です。今作のテーマは「ガウチョとポルテーニョの恋」。どうぞお楽しみください。
栗色の髪の毛と真っ白な肌からは想像できないほど、イサイアは嵐のように荒々しい男である。人々は彼のことをアルゼンチンのカウボーイ「ガウチョ」と呼ぶ。
その名にふさわしく、イサイアは常にエネルギーの発散先を探し求め、危険を顧みない勇敢さと無鉄砲さを持ち併せている。
ガウチョの必需品は、腰につけた鋭いナイフと動物だ。ナイフこそ持たないが、イサイアにはピクンチャという名の大型犬がいる。
普段は猫のように大人しくのんびりした痩せた犬だが、草原広がるカンポ(田舎)へ連れていくと豹変する。
低い姿勢を保ったまま、風を切り裂くように走り、あっという間にキツネやウサギを捕らえる。大きなダチョウを仕留めたとの逸話があるほど優秀な狩猟犬である。
ピクンチャはイサイアの相棒であり、友達でもあった。
最近イサイアはある女の子が気になっている。小麦色の肌に力強い目、ウェーブのかかった黒髪が魅力的なアビーだ。初めはキューバやコスタリカあたりの出身かと思ったが、ブエノスアイレス生まれのポルテーニョだそう。
数日前、アビーはイサイアの近所に引っ越してきた。それは町が閑散とする14時頃、そうシエスタ(昼寝)の時間だった。カーテンを閉め、薄暗い部屋の中でイサイアがうとうとしていると、外からアビーの快活な声が聞こえた。
思わずイサイアは飛び上がり、階段を駆け下りて、窓から外をのぞいた。大きな男達が家具を運んでいる中、軽やかに踊っていたのがアビーである。組み立て中の舞台で、主演女優が一人リハーサルに励んでいるかのような光景だった。
「やあ」とイサイアは声をかけた。
イサイアに気づいたアビーは、驚き少し恥ずかしそうにしながらも、挨拶を返す。
イサイアは扉を開け、アビーのもとへ走った。そうして二人は、初対面にもかかわらず、何時間も時を過ごしたのである。
*
全ての恋愛物語と同じように、二人の間には大きな障壁があった。イサイアとアビーの両親、特に母親達が自由に会うことを許さなかったのである。
そして、全ての恋愛物語と同じように、若き二人は困難に立ち向かう。
毎日午前10時、イサイアはこっそりと家を抜け出し、アビーの家の窓を静かに叩く。そよ風がぶつかったかのように、窓が少しだけ振動すると、勢いよくアビーが顔を出した。
「やあ、アビー。元気かい?」
「イサイア!今日も来てくれたの!嬉しいわ」
「しっ!大きな声を出したらダメだ。君のママに怒られちゃうぞ」とイサイアは声を潜めて言う。
「はっ、そうね。今行くから待ってて」とアビーは肩をすくめ、周囲を見回した。
アビーは褐色の肌がよく映える淡い紫のワンピースに、白のサンダルを履いていた。
「君はお姫様だ」とイサイアは照れもせず褒めた。
アビーは咲いたばかりの花のような笑顔を浮かべ、イサイアに抱き着いた。
二人は初めて見るかのように花や昆虫を観察したり、寝転がって空の美しさを語りあったりした。木々の影が、アビーのワンピースに模様をつけた。
突然アビーは起き上がり、乱暴にサンダルを脱ぎだした。イサイアがその様子をじっと見ていると、「捕まえてごらんなさい、セニョール」とアビーは走り出すのである。イサイアは声に出して笑い、追いかけ、アビーを捕まえた。
なんて幸福な時間だろうか。一週間のうちに、たった一日だけでも、彼らのように時間を過ごせれば、それはもう幸せな人間である。
生産性なんてこれっぽちもない。しかし、こんな無意味な時間こそが色褪せない思い出となり、これからの人生の糧となるのだ。
人間にできてロボットにできないこと、それは無意味な時間を楽しむことである。
だが、二人だけの幸福な楽園がいつまでも続くはずはない。試練を与えるのが神の役目なら、親こそ神なのかもしれない。
「イサイア!どこにいるの!?」
家の中でイサイアの母親が叫んでいる。
「ママだ。もう行かなきゃ」とイサイアは急いで言った。手段を選ばないイサイアでも、母親には頭があがらない。
「また会えるでしょ」
「うん、シエスタの後に来るよ」
イサイアはアビーの頬にキスをした。切なくて、甘美な別れだった。
*
「アビー、アビー」
夕方、イサイアはいつものようにアビーの窓を叩く。走って出てきたアビーは、その小さな腕をイサイアの首に絡めて、ぎゅっと抱き着いた。
「これ欲しい?」と笑顔のイサイアが持っていたのは、アビーの大好物のお菓子である。
「わあ、ありがとう!」とアビーは目を輝かせた。
二人は庭のバケツに腰を下ろし、5時のおやつこと「メリエンダ」を堪能した。メリエンダにマテ茶は欠かせないが、この二人はマテ茶が苦手である。マテ茶さえ飲めれば、イサイアは完璧なガウチョだったのに。
イサイアは唇をはじき、チュッチュと音を鳴らして、ピクンチャを呼んだ。ピクンチャが走り出したかと思えば、すでに飼い主の隣に座っている。後ろでは、砂ぼこりが舞っていた。
イサイアがひょいっとお菓子を投げると、ピクンチャは見事に空中キャッチ。それを見てアビーは大喜びである。
彼らを見ていると、愛する人と動物さえいれば、人生はどうにかなると思わざるに得ない。たとえ、片方がいなくなっても、辛い旅を共にする相棒は残っているから。
いつの間にか、イサイアの白シャツが優しい夕陽色に染まり始めた。二人の好きな時間がもうすぐ訪れる。
「イサイア、空を見て!」
砂漠のように乾燥したパタゴニア地方では、夕方になると毎日のように空のマジックショーが始まる。
たった数分の間に、空の色が次々と幻想的に変わるのだ。紫がかった青い空とピンクに染まった雲、次第に雲はオレンジになり、空の色はくすみ始める。
「お月様も綺麗だわ」
月を眺めるアビーの顔を、正面から見つめてイサイアは「月が2つある」と言う。
「お月様は1つだけよ、ほら!」とアビーは笑う。
「2つあるよ」と口数少なくイサイアは言い、アビーの目を指さした。彼女の潤った瞳には、空に浮かぶ月よりもキラキラと輝く月が映っていた。
*
母親はイサイアを探していた。居場所は分かっている。どうせアビーと一緒にいるのだ。母親の足取りは重たかった。それも当然のことである。イサイアと争うと分かっているのだから。
この母親は、理由もなく子の幸せを壊す親ではない。イサイアを連れ戻さなければいけない理由があるのだ。
母親がイサイアを探しに外へ出たところ、彼女はアビーの母親と鉢合わせした。アビーの美しい髪の毛は母親譲りのようだ。アビーの母もまた、どこか悲し気な表情である。
二人は「こんにちは」と最低限の挨拶を交わし、逢瀬を重ねるイサイアとアビーを発見した。
「アビー、帰るわよ」
「嫌よ、ママ!まだイサイアと時間を過ごしたいの!」
「ダメよ。やらなきゃいけないことが、たくさんあるでしょ」とアビーの母親が強く言った。
「イサイア、あなたもよ」追撃砲をイサイアの母親は放った。
「どうして!?嫌だ!」
何度も無理やり引き離されたからだろう、イサイアは強く反抗している。目に怒りの炎を灯し、無言で相手をにらみつける。その姿はまるで、インディオと戦う前のガウチョである。
しかし、イサイアの反乱も虚しく、アビーは強く腕を引っ張られ、自宅へ連行されている。
「アビー!待ってよ!」
「イサイア!ママ、いや!イサイア!」
「別れの言葉さえ言ってないんだ!」と叫び、イサイアはアビーのもとへ走った。二人はハグを交わし、イサイアは涙流れるアビーの頬にキスをした。
観念したイサイアもまた、母親に連れられて帰宅。けれども、家の中にいても聞こえるアビーの泣き叫ぶ声が、イサイアの闘争心に再び火を灯した。
「アビー!アビー!今行くよ!泣かないで。お願いだからドアを開けて!」
「ダメよ、イサイア」
「カギをくれよ!」と言い、イサイアはドアを強く蹴りだす。彼は窓を開けて、再びアビーの名前を叫びだした。
「いい加減にしなさい!もうアビーと会うのは許しませんよ!」と母親の堪忍袋の緒も切れた。もはや愛憎劇である。
「どうして?どうしてアビーと会えないの?」とイサイアは尋ねた。目からは涙が落ちている。
「もう夕食の時間だからよ。早くパパとお風呂に入ってきて、砂まみれの身体を綺麗にしてきなさい!」
ちなみに、イサイアは4歳でアビーは3歳である。二人は毎日のように幸せな時間を過ごしては、母親たちに怒りの抵抗を示しているのである。
*
【あとがき】
これは僕の息子と近所の女の子の話です。近所と言っても、同じ敷地内に住んでいるから、隣人以上家族未満の関係の女の子。
最近、女の子の家族はブエノスアイレスから引っ越してきました。初めて挨拶を交わした日から、二人は毎日朝から夜までずっと遊んでいます。
空を見たり、昆虫や花の観察をしたり、追いかけっこしたり。スマホがなくとも、人間はこんなにも楽しめるんだなあ、こんな時間が思い出になるんだなあと感心するどころか、彼らから何か大切なことも学んでいます。
でも、一日中遊び続けるわけにはいきません。ご飯やお風呂、幼稚園から送られてきた宿題もあるわけですから。妻が庭のどこかにいる二人を探しに向かいます。だいたい、家や車の裏に隠れているんですよね。
いつも息子は「ノー!ポルケ(どうして)!?」と泣き叫びながらも、彼女の頬にキスとハグをして、家へ連行。
お隣さん同士で、防音仕様でもないので、家の中にいても女の子が息子の名前を呼ぶ声が聞こえる。それを聞いて息子は玄関へ走り出し、施錠されたドアをけり、僕達に怒られているわけです。
息子は男の子ということもあり、本当に向こう見ずな性格。感情表現も豊かなので、親戚からは「ミニ・ガウチョ」と呼ばれています。
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