アルゼンチンで一人前の焼肉奉行になるまでの道のり
アルゼンチンに移住してたったの半年で、体重が10キロ近く増えてしまった。理由は単純明快、この国には魅力的な食べ物がたくさんあるからである。
具材がたっぷり詰まったエムパナーダ、夜中にこっそりスプーンですくって食べたくなるドゥルセ・デ・レチェ(ミルクジャム)、風味豊かな赤ワイン。僕はアルゼンチンに胃袋を掴まれ、この国に恋をした。
義父とアサド用の釜
数ある名物料理の中でも、この国の人々の自慢が伝統炭火焼肉アサドである。アサドは羊を丸ごと串焼きにしたり、肉を網の上に乗せて焼いたりと調理スタイルは様々だが、一般的にはドラム缶を思わせる釜で調理をする。
ガウチョ(アルゼンチンのカウボーイ)発祥料理ということもあり、アサドの作り手は男だ。そして、アサドを作る人を「アサドール」と呼ぶ。アサドールは、火起こしから肉の味付け、切り分けまで行ういわば焼肉奉行だ。
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何度かアルゼンチン人の友人とアサド作りに挑戦したことがある。てっきり、彼らは若いながらもアサド名人だと思っていた。
だってここの人々は、子供の頃から毎週のようにアサドを食べているのだから。僕の子供も姪も、歯が生え始めた頃から、牛肉の塊をチューチュー吸っていた。
アサドを食べるのは毎週日曜日、誕生日、父/母の日、結婚式、クリスマス、新年、川や海に行った時、遠方からの客を迎えた時、アサドの会話をした次の日、ああ書き尽くせない。とにかくアルゼンチン人はいつもアサドを食べている。
それなのに、友人たちは自分でアサドを作ったことないどころか、火さえつけられないのだ。どうしても木に火がつかないから、ある友人はアルコール液をまき散らして、強引に火をつけたこともあった。
「今までアサド作ったことないの?」と尋ねると、誰もがこう答えた。
「ないさ。いつもパパが作るからね」
そうか、単純に若い世代はアサドを作る機会がないのだ。
ドンこと妻の祖父がアサドを作っているところ
家族の絆が強いため、行事にはいつも家族親戚が大集合。年長者である父やアブエロ(祖父)、ティオ(叔父)たちがアサドを作るから、子供たちは出来上がりを待つだけ。
結婚して自分の家庭を持つまで、アサドを作る機会はめったにない。いや、結婚しても父や義父が招待してくれれば、自分でアサドを作る必要はない。
もしアルゼンチン人の未婚化が進めば、いずれアサドはなくなるかもしれない。実際に、ブエノスアイレスなどの都市部では、毎週末アサドを作る人が少なくなっているようだ。こうして僕はアサド絶滅説を唱えるようになった。
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ここまで偉そうに書いてきたが、僕も移住して数年間アサドを作ったことはなかった。アルゼンチン人と結婚した僕は、いつも義父や義祖父のアサドのご馳走になったから。
だが、この国に住む者として、やはり一人前のアサドールになりたい。密かにそう願っていた時に、出会ったのが妻のいとこゴンサルオ。
隣人で、年もそれほど離れていないこともあり、自然と僕達はゴンサルオ家族と仲良くなった。ある日、ゴンサルオはアサドを作ってくれた。
一度も作ったことはないが、これまで幾度もアサドをご馳走されている僕の舌は肥えている。そんな僕が認める、ベスト・オブ・ベスト・アサドだった。いつまでも口の中に残る力強い肉の風味、程よい柔らかさ。聞いてみると、特別良い肉を使っているわけではないようだ。
「ゴンサルオ、僕にアサドの作り方を教えてくれないか?」
「もちろん。ここに住んでいるなら、アサドは作れないとな」
こうしてゴンサルオは僕のマエストロ(先生)になった。
マエストロ・ゴンサルオと羊の丸焼きのアサド
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ゴンサルオは素晴らしいマエストロだった。初回は作り方を見せてくれ、2回目は一緒に作ってくれる、そして3回目は僕一人に任せてくれたのだ。
それまでアサドは火をつけて肉を焼くだけの単純なものだと思っていた。だが、実際に一から自分でやってみると、その奥深さを痛感する。
まず火のつけ方から間違っていた。それまではアサド用の太い薪を組み、その中に新聞紙を入れて、火をつけようとしていた。
しかし、ゴンサルオが言うには、まず木を細くする必要がある。トンカチで何度も強く木を叩き、太い木を割って細くするのだ。
細い木を組んでから、新聞紙に火をつける。そうすると、簡単に火が木にうつった。火が消える心配がなくなってから、太い木を加えるのだ。
「薪はすぐに燃え尽きないやつがいいぞ。いつまでも燃え続ける薪だと、アサドの後も火を囲んでお喋りできるからな。アサドはコミュニケーションなんだ」
火がついたら、影の主役「炭」の登場だ。網の上にたっぷりの炭を置いて、火で白くなるまで焼く。炭の準備ができる間、肉の味付けに取りかかる。
基本的には、ナイフで肉を開き塩をたっぷり振るだけ。素材本来の味わいを楽しむのがアルゼンチン流。だがゴンサルオは、刻みニンニクとパセリも塗り込む。この時点で、すでに美味い匂いが漂う。
味付けが終わったら、炭を焼く焚き火を見ながらのビールタイム。銘柄はアルゼンチンの国民的ビール「キルメス」だ。
缶ビールもあるが、ここでは瓶ビールが主流。アルゼンチンのイケてる男は、栓抜きは使わない。ライターやナイフで、ワイルドかつスマートに蓋を開けるのだ。
何度も蓋にあてたライターやナイフを押し上げたりするのはダサい。一発で成功させるのがカッコイイのだ。ちなみに、僕の師匠は手掴みで骨付き牛肉を食し、その骨で蓋を開ける。まさにワイルドを極めた男だ。
炭が十分に熱されたら、網から落とす。濡れたタオルで網を持ち、ワイヤーブラシもしくは新聞紙で網の汚れを落とす作業に入る。網は熱されているから、簡単に炭汚れや肉の脂が落ちる。この作業は丁寧に行わなければいけない。
網の下に少量の炭を広げて、残りは端に寄せる。肉を置き、釜の蓋をしたら、あとは適宜ひっくり返すだけだ。
美味いアサドの秘密は、じっくりじっくりと焼くことにある。火ではなく炭の熱だけで焼く。文字通り、炭火焼きである。そのため、美味いアサドが完成するまで2時間はかかる。
牛肉や鶏肉が焼けたら、我々のメホール・アミーゴ(親友)チョリソを置く。ゴンサルオの教えでは、チョリソはフォークを刺してひっくり返してはいけない。フォークを刺すことで、中に詰まったジューシーな脂が流れてしまうからだ。
熱々のチョリソを手でひっくり返すのは辛いが、これもアサドールの役目。初めてチョリソーをひっくり返したとき、僕は指に軽度のやけどを負った。
「君が初めてアサドを作ったのはいつだい?」
「家では親父が作っていたから、結婚してからだな。親父達はチリに住んでいるし、アサドを食べたければ、自分で作る必要があったんだ」
最後に血のソーセージことモルシーシャを置いて完成。こうして、はじめて一人でアサドを作った。2019年12月、移住4年目のことである。
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移住してから、僕はいつもアルゼンチン人に認められたかった。彼らと過ごす時、いつも僕は外国人、日本からの移民だった。
その現状を変えたく、彼らに近寄った。マテ茶を飲み、口の悪い冗談を言い、アルゼンチンの映画や音楽にも親しんだ。それでも、承認欲求が満たされることはなかった。
アサドを作れないのがコンプレックスだったから。アサド作りなると、途端に僕は外国からのお客さんになっていた。
移住してすぐの頃、義祖父に頼まれて、薪割に挑戦したことがある。ろくに薪を割れないどころか、自分の手をトンカチで打つ僕を見て、みんな笑った。
「シュンは日本人だから、できなくていいのよ」
その場にいた誰かの悪意のない言葉だが、それはタトゥーのように僕の心に刻まれた。
それからというもの、アサド作りから逃げるようになった。
でも本音を言えば、友人や親戚が集まった時、各自が手際よく薪を割り、火をつけ、肉の味付けをして、賑やかに話す粗暴な男たちの一員になりたかった。
彼らとの会話に混ざっていても、僕は遠くを見つめるかのよう、炭や肉の血で汚れた彼らに憧れのまなざしを向けていた。
アサドールになりたいと願いながらも、「どうせできないから」「誰か作ってくれるから」と自分へ言い聞かして逃げ続けた。
でも、今は違う。勇気を出して、ゴンサルオに頼んでよかった。この国の最重要文化アサド、その担い手になれたのだ。今や僕は日本人でもあり、アルヘンティーノでもある。
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「シャ・エスタ。ア・コメール(できたよ、食べよう)」
アサドができたら、僕は決まってこの掛け声をかける。
食事のシチュエーションは、多少なりとも味に影響を与える。アサドの場合は、やはり外で食べるのが一番だ。家の中から、机と椅子を持ってきて、皆が座る。
アサドールの僕は、フォークでまな板の上に肉を置き、食べやすいように切り分ける。それを皆が手掴みで食べたり、パンに挟んで食べたりするのだ。熱々の炭火焼肉が一番美味い。
だが、はじめてアサドを作って分かった。アサドールこそ、一番美味しくアサドを食べられることに。心地よい炎を感じながら、ナイフで熱々の肉を切り、手づかみで口に放る。
冷えたビールが身体を冷ますと同時に、口の中の脂を洗い流してくれる。再び骨付き牛肉を手で食べ、骨と指まで舐める。骨は座って待つ犬へ投げる。これ以上に美味い肉の食べ方があるだろうか。
日曜日は朝遅くに起床していたが、今は早起きしなければいけない。だって、僕のアサドを待ってくれる人達がいるのだから。
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