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デヴィッド・ボウイが気づかせてくれた愛についての真実


アルゼンチン人の妻と出会ってから6年目を迎える。僕は彼女のことを深く愛し、彼女のことなら何だって知っているつもりだった。自称世界一の彼女オタクである。

例えば、彼女は細くてカリカリにあがったフライドポテトが好き。頬にはうっすらとそばかすが広がり、あごのほくろは彼女のチャームポイント。彼女のコンプレックスは大きな耳(僕はそれが好きだ)。タトゥーを5つ入れていて、本気で怒った時は静かに涙を流し、嬉しい時は軽やかに踊る。子供の頃はディズニー映画が友達で、シリアスな映画は苦手。でも、「縞模様のパジャマの少年」は誰にでもおすすめするくらいお気に入り。

こんな感じで、僕は文字通り頭から足の先まで、彼女のことはなんでも知っている。と思っていたが、どうやらそうでもなかった。

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先日、彼女の運転で買い物に出かけた。ドライブ中、彼女はお気に入りの曲が入ったオリジナルプレイリストをかける。いつもは、ダディー・ヤンキーやマルーマ、パウロ・ロンドラなどのラテンミュージックばかり。

その日の車内に流れたのは、デヴィッド・ボウイの”Let's Dance"だった。初めは、僕のスマホが誤ってスピーカーに接続されたのかと思った。だが、彼女のスマホから流れていると分かった時、僕は言葉を失うほどの衝撃を受けた。

デヴィッド・ボウイだと......

まさか彼女がデヴィッド・ボウイの曲を聴くとは思いもしなかった。たまに、ビートルズやレッチリなど昔の曲を聴いてはいる。だが、5年間一緒に生活していて、彼女がデヴィッド・ボウイを聴いている姿を見たことは一度もないし、話題にあがったこともない。

別にデヴィッド・ボウイほどの有名アーティストなら、誰もが聴く機会はあるはずだ。でも僕は、ボウイの音楽は絶対に彼女の好みに合わないと思い込んでいた。

彼女は、レゲトンとラップ、レゲエを好み、ポップやロックはあまり好まない。特に傾向的に、イングランド出身アーティストを嫌う傾向にある。70年代80年代の英国音楽を好む僕とは、音楽の趣味が全く合わないのだ。

それなのに、それなのに、彼女は今デヴィッド・ボウイの曲を流しているどころか、ノリノリで「レッツ・ダンス!」と歌ってさえいる。完全に好きな曲を歌うときの歌い方だ。

「あれ、君はデヴィッド・ボウイ好きだっけ?」、平静を装い恐る恐る僕は尋ねる。
「昔から好きよ。まあ最近は聴いていなかったけどね。クイーンの”Under Pressure”で思い出したのよ」

次に流れたのは、まさかの”Moonage Daydream”だった。”Starman”でも、”Heroes”でもなく、比較的マイナーな”Moonage Daydreama”なのである。この曲をプレイリストに追加する当たり、彼女のボウイへの愛は強い。

頭の先からつま先まで、さらに言えば頭の中まで彼女のことなら何でも知っているつもりだったが、6年目にして思いもしなかった一面を発見できた。

スピーカーからはボウイの切ない歌声が流れ、それに合わせて彼女は楽しそうに歌っている。

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ボウイ事件には驚いたものの、冷静に考えると、どんなに愛していようと、どれだけ長く時を過ごそうと、一人の人間の全てを知ることなんて不可能である。僕が彼女について知らないことがあるように、彼女もまた僕について知らないことがある。

僕は彼女の全てを愛しているつもりだった。でも、それは違う。僕は、僕が彼女について知っていることだけを愛しているし、愛せる。知らない一面は愛せない。

愛の形は様々だが、その一つとして、相手のことを知ろうとする願望があるのかもしれない。

今よりも彼女のことを愛したいのなら、もっと彼女のことを知らなければいけない。今よりも自分のことを愛したいのなら、もっと自分自身のことを知らなければいけない。

相手のことをさらに知ることで、より愛せるようになれば、より理解できるようになる。知りたい願望は、いつまでも新鮮な関係性を保つために必要なものだ。

彼女の存在を当然と思っていた僕が見過ごしていただけで、これまでも彼女は知られざる一面を見せていたのかもしれない。今一度付き合いたての頃のように、彼女のオタクにならなければ。

そうすることで、5年後も10年後も、40年後も、いや彼女と一緒にいる間は、新しい彼女を発見できて、もっともっと彼女を愛せるようになるのだろう。

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