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恵みの雨と揚げパンと夜更かしさん

僕はアルゼンチン西部のネウケン州で生活を送っている。住んでみてわかったが、ここはめったに雨が降らず、年中乾燥している。

ネウケンの女性たちは、ほのかに良い香りを漂わせていて、初めそれは香水だと思った。だが、その香りの正体はハンドクリームだった。

乾燥しているから、一日に何度もハンドクリームを手に塗り、最後に余分なクリームを手と首元に馴染ませるのだ。

土地は地平線が見えるほど広大だが、言い換えれば殺風景。所々、乾燥した草や葉のないひょろ長い木が生えている。おそらく上空から見ると、ネウケン州の土地は、禿げかけの頭みたいに見えるだろう。

こんな感じで、土地や人々を観察すれば、何となく雨が降らないんだろうなと分かる。そして、雨は憂鬱なものだと思っていたが、ネウキーノは雨を待ち望んでいるのだ。

雨に飢えているからだろうか、ここの人々は雨の匂いを感知できる。

雨が降る日、僕の妻は鼻から空気を吸い込み、「雨が降るわ」と喜んで言う。どんなに晴天だったとしてもだ。彼女と結婚して5年になるが、彼女の雨予報が外れたことはない。

日本にいたとき、雨の匂いは分からなかった。雨が降った後の匂いは分かる。けれども、雨が降る匂いは検討もつかない。

ネットで調べてみると、雨の匂いは「ペトリコール」と呼ばれ、温かく乾いた天気が続いた後に降る雨の香りだそう。

なるほど、温かく湿度が極端に低いうえ、雨がめったに降らないネウケン州は、日本よりも強いペトリコールが発生するのかもしれない。

そう考えてみると、なんだかペトリコールを感知できるようになった気がする。天気予報ではなく、おのれの嗅覚を頼りに、雨を的中させるなんて格好いいではないか。

真夏の昼下がり、向こう側に入道雲が見えた。鼻孔を思いきり膨らませて、空気のテイスティング。うん、ペトリコール味だ。

「今日は雨が降るね」こう妻と隣人に言うと、彼らもまた空気のテイスティングをする。首をかしげながら、「天気予報がそう言ってたのか?」と尋ねられてしまった。

まだまだ、ペトリコールは分からない。

ネウキーノは雨を好むが、歓迎される雨と歓迎されない雨がある

まず日曜日と金曜日の雨は歓迎されない。日曜日は外で伝統炭火焼肉アサドをしたければ、金曜日は仕事終わりにクラブやフットサルへ行くからだ。

理想は土曜日の雨。明け方まで遊んで疲れ果てた身体に、雨音が染みるのである。ここで、皆さんにネウキーノの雨の楽しみ方を伝授しよう。

雨の日は絶対にシエスタは欠かせない。シエスタは昼休憩の意味だが、ここでは昼寝と同じ意味で使われている。

古き良き伝統が残るネウケンでは、午後の仕事は16時17時頃に開始されるから、勤め人も平日にシエスタできる。

ちなみに土曜日の雨が歓迎される理由の1つに、仕事時間を気にせずに昼寝できることが挙げられる。

正直に告白すると、僕は毎日昼寝をしない。妻にせがまれると断れないが、眠くないときは読書や運動をする。友人たちの言葉を借りれば、僕は真のネウキーノではない。

しかし、そんな僕でも雨の日の昼寝は欠かせなくなった。朝起きて、雨が降っていたら、もうシエスタのことを考えるほどである。

眠気を誘うため、腹いっぱいになるまで昼食を食べたら、寝室の準備に取り掛かる。

窓はほんの少しだけ開けるのがポイント。そうすると、心地よい冷たい風が入り、雨の音量も上がる。

昼寝に光は邪魔だから、電気を消すのはもちろん、カーテンも閉め切るのだ。妻は窓に黒の画用紙を貼るほど寝室の光を嫌う。

準備が整ったら、ベッドの上で横になるだけ。冷たい風を感じつつも、肩まで布団をかけて体を温める。このアンバランスさが最高だ。

目を閉じれば、雨が奏でる様々な音が、脳を気持ちよくほぐす。ザーザーと降る音、天井や地面にぶつかる音。ああ、雨音は脳のマッサージだ。気づけばあっという間に夢の中へ。

普段は2時間ほどのシエスタだが、雨の日は3時間昼寝してしまうこともある。でも、別にいいのだ。一か月に一度もない愉しみなのだから。

長いシエスタが終わったら、腹ごしらえである。アルゼンチンにも「メリエンダ」というおやつの時間がある。シエスタがある分、5時6時に食べるおやつだが。

普段はパンにジャムをつけて食べたり、ビスケットをつまんだりするが、雨の日は違う。雨を祝うには、特別な料理がふさわしい。

アルゼンチンでは雨が降ったらトルタ・フリータ(揚げパン)を作るのが伝統だ。

パン作りに水は欠かせない。しかし昔は、簡単に水が手に入らなかった。では、今は安定しているのかと聞かれると、困ってしまう。今も、蛇口をひねっても水が出ないことは多々あるから。

とにかく昔の人々は、空から贅沢降ってくる雨水を料理に使った。ガウチョたちは、雨水でトルタ・フリータを作り、それがいつしか伝統になったそう。ここの人々にとって、雨は天からの贈り物なのだ。

シエスタ終わりで、まだ眠そうな妻は台所に立つ。小麦粉と塩、水(雨水ではない)を混ぜて、平らな形のパン生地を作る。

たっぷりと油が入った鍋に生地を放り投げ、からっと揚がれば、トルタ・フリータの完成。山のように積まれたトルタ・フリータを食べながら、マテ茶を飲むのが、雨の日の愉しみである。

つい先日のことだ。妻がペトリコールを感知して、雨が降った。嬉しいことに土曜日の雨である。

いつもの通り長いシエスタの後、トルタ・フリータを食べて、雨を十分に満喫。さあもう寝る時間だ、とベッドに横になっても、一向に眠気は来ない。当然だ、3時間も昼寝をしたら夜は眠れない。

眠くないのに眠ろうとするほど無駄な努力はない。妻が雨でも見ながらマテ茶を飲もうと提案するので、僕達は一階に降りて、マテ茶の準備をした。

玄関先で雨音を聞きながらマテ茶を飲んでいると、隣人夫婦も出てきた。彼らはマテ茶を飲みながら煙草を吸っている。

「眠れないの?」と妻が尋ねると、隣人は「シエスタのし過ぎで眠れないんだ」と笑った。ふと見まわしてみると、明かりがついている家が多い。

雨の日は夜更かしさんが増えるのかもしれない。

特に会話をすることもなく、余ったトルタ・フリータをつまみながら、僕たちはマテ茶で体を温めていた。

突然、「見て!」と妻が空を指さす。いつの間にか、雨は止んでいた。代わりに、さらりとした雪が降り始めた。移住5年目、アルゼンチンで見た初めての雪だ。

ベッドに戻りSNSを眺めると、多くの友人が深夜の初雪を知らせていた。やっぱり、雨の日は夜更かしさんが多くなるようだ。

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