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”相手とひとつになりたくてしょうがない”半径1メートルの世界「恋」(2)

 「融合」とは複数のものが溶けあって一体になることである。サピエンスによる発情期「恋愛システム」に落ちるために脳がスイッチを入れると、パートナーと「融合」したいという強い衝動が生まれるようだ。
 「愛」の形はさまざまであり「母性愛」「父性愛」「郷土愛」などなど幾つでも存在するが、その中でも特に「恋愛」は特殊だ。ショーペンハウアーは「あらゆる形式の愛が性への盲目的意思に人間を繋縛する」と説いたし、フロイトは性欲のエネルギーを特別に「リビドー」と名付けた。ピカソは「人生で最も素晴らしい癒し」だと言ってたし、フランシス・ベーコンは「恋しても賢くいるなんて、不可能だ」と言っていた。まあ何にせよシステムが作動すると多少バカになり、強力な力が二人を縛りつけ、特殊なエネルギーが支配し「融合」へと二人を向かわせる。
 本来、性を伴う愛は他と違って「性愛」に分けられるが、「恋愛」と「性愛」はその本質は同じように見える。どちらも強い独占欲や嫉妬、執着や衝動を引き起こすからだ。なぜここまで強い情動をシステムは引き起こすのだろうか。

 恋愛とは、他の人間と完全に融合したい、ひとつになりたいという強い願望である。恋愛はその性質からして排他的であり、全ての人に向けられるものではない。そしてまた、おそらくもっとも誤解されやすい愛の形である。

「愛するということ」エーリッヒ・フロム 紀伊国屋書店 2020年

 これまで「恋」や「愛」の定義はさまざまな詩人や哲学者が提唱してきたが、私にはこの「相手との融合への渇望」という表現が最もしっくりくる。パートナーと混ざり合い、溶け合いたい、完全に理解したいし、理解して欲しい。他人である以上それは絶対に不可能なはずなのに、システムのスイッチが入ってしまうとそれらを渇望する状態に陥る事になる。二人だけの世界に閉じ込められるその様は、まるで「瓶詰地獄」のようだ。
 そして、システムが作動すると半ば強制的に自分のパーソナルな境界線がぼやかされることがわかってきた。パートナーと融合させようと遺伝子と脳が働きかけるのだ。

 愛する人との感情的な一致を求める気持ちが強いあまり、恋に落ちた人間にしてみれば自分自身との境界線がぼやけてしまうこともある

「人はなぜ恋に落ちるのか?恋と愛情と制欲の脳科学」ヘレン・フィッシャー著 2007年

 自分と他人の境界線がぼやけるなんてまるで白昼夢のようだ。どうも恋に落ちるとパートナーとアイデンティティの同一化を図ろうという強い衝動に駆られるようだ。それがなかなか叶わない故に、恋人たちは価値観や意見の相違からすれ違ったり喧嘩に発展するのだろう。そもそも、他人との同化は不可能なのだが、それができるかもしれないと錯覚させる脳の状況はやはりかなり変だ。
 一説では失恋は「アイデンティティの喪失と同じ苦しみ」と表現されている。自分の一部が何らかの突発的なアクシデントで欠損したのなら、それはそれは苦しいだろう。長い年月をかけて価値観の共有を行い、時間と感情の共有を行い、簡単に剥がれないほど同化したものが失恋によって引き剥がされるのだ。
 なぜこうまでして自己の境界線をぼかすのだろうか。おそらく、それほどの強い心の力を与えないと、他者でありなおかつ性差もある男女は簡単に融合できないからだろうと私は思う。思った以上に、性差というものは深い溝なのかもしれない。システムを働かせないと、生存だけに集中してしまうのかもしれない。某海外チャンネルにある真っ裸で男女が僻地でサバイバルする番組を見ていると、カメラが回っているのもあるのだろうが、生きることに必死で愛とか恋とかそれどころではない様子だ。確かに古代人が野生の中で生殖行動をする際は相当な危険が伴っただろうし、動物に襲われたり災害に遭うかもしれなかったからだ。また、交尾中はあまりにも無防備なため、他の部族に襲われる危険性もあったかもしれない。その上食物が長期間確保できないようであれば、例え出産しても子供を育てることもできないだろう。そう考えると、むしろヒトは定期的な発情期を柔軟に変化させることで、生活に余裕がある時にロマンスが生まれるように仕向けたようにも見える。
 性差にも環境にも状況にも生じるミスマッチたちを乗り越えて生殖を実現するためには、報酬システムを総動員して、快楽物質を惜しげもなく出し、ややおバカにならないと繋がれない。
 報酬システムは予め予測されている報酬にも活発にドーパミンを放出する。旅行のパンフレットを眺めるだけでも楽しくなってくるのはそのためだ。パートナーと会えない時に恋焦がれ、話したい、触れたい、あの幸せな時間を過ごしたいと思い描くと大量のドーパミンが放出される。パートナーと会えないときも気持ちよくなりたいために妄想しドーパミンを出そうと試みるのだ。お揃いのものを持ったり、パートナーのつけている香水を買ったりする行動は気持ちよさを反芻するためとも言える。これで会えないと実際の報酬自体が与えられないためもやもやとした強い不全感に襲われ、不機嫌になっていくだろう。それほどに相手に陶酔させる脳内状況を恋愛状態では惹起している。

 恋する人は相手に依存しきってしまうため、連絡が取れないとひどい「分離不安」に苦しむことになる

「人はなぜ「人はなぜ恋に落ちるのか?恋と愛情と制欲の脳科学」ヘレン・フィッシャー著 2007年

 「分離不安」は、本来母子関係において子どもが母親と離れることを恐れる心理について指している。Bowlby(1973 黒田・岡田・吉田訳 1977)の愛着理論によれば、分離不安は「自分は愛される価値のある存在であるかどうか」 という不安を反映していると言われている。乳幼児期の親と子の相互作用の中で構築され、親密な対人関係を構築する際の雛形として機能する。分離不安は現在関係を構築している特定のパートナーに対する「期待」や「信念」であるとも言われており、分離不安を覚えるということは、パートナーを安全地帯だと知覚しているということだ。パートナーから離れると強い不安を覚えるということは、依存している証拠とも言えるし、パートナーからどれぐらい愛されているかを自分がどう評価しているかとも言える。

 結局のところ、生殖は種の保存のためなのだが、生殖のためだけでないように思っているところがなんとも人間らしい。ホモ・サピエンスは限局した発情期を設けず、何らかのスイッチをもとに発情期に入る。前頭前野すら簡単に押さえ込む「恋愛システム」は愛の力に任せ、全てのエネルギーを使ってパートナーと融合しようと動き出すのだ。

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