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【考え事】-コンテンツの捉え方

 小学校のころは、梅雨というものがひどく煩わしかったのを覚えている。じっとりと蒸すようで、空はうす暗い。まだ細かった身体に背負ったランドセルはただでさえ重いのに、長くて邪魔な傘を持たなければいけない。
 週初めの月曜日。上履きの袋を抱え邪魔な傘を開く。その陰を叩かんとする雨粒の音を聞き流しては、濡れた地面を何度も踏んだ。雨粒と踊るように揺れる傘のバンドにふと目を引かれ、おもむろに顔を上げる。
 暗い色をした小間から曇天を見えげるほどに、僕はいっそう鬱屈とした。

***

 今は、雨も良いなと思うようになりました。前日などは気圧の影響で大分しゅんとしていますが……雨の日の雫の滴る葉や、晴れた後の水たまりに広がる空は、とても美しくて好きです。

 さて、話は変わりますが、僕には恋人さんがいます。とても素敵で、長い時間を共に過ごしている方です。ご紹介はまたの機会に。
 日常を共に過ごしていますと、同じコンテンツを楽しむ機会も多くございますが、その捉え方には違いがあることに気が付きます。
 それがまた、面白い。

 僕から見た恋人さんは、映像作品含め諸々のコンテンツを、「ある程度感情移入はしながらも、自分の主観・思考をしっかりともって観ている」ように思います。途中の感想や呟きなどを聞いていると、そういった印象を受けることが多いです。

 対して僕は、「主観・思考を投げ捨てて、その世界に没頭・奔流されている」感覚と表現したらよいのでしょうか。作品の中で、もみくちゃにされているような感覚でそれらのコンテンツに触れているように思います。溺れる、沈む。例えるのでしたら、そういった言葉に近い。
 観ている途中に、自分の中に言葉や疑問、意見などは浮かばない。ですから、恋人さんのように主観(自分)を保ったままコンテンツを楽しめる方の感覚はどこか不思議で、また尊敬するものです。

 僕は、物語の登場人物ではない「僕」の主観・思考の言葉が、自分がコンテンツを楽しむうえでノイズになってしまうので、主観を保って観ようとするのには、非常に体力を消耗します。

 コンテンツを享受するのは自分であるにも関わらず、その瞬間の自分の存在・思考は邪魔になる。
 こうやって書き出してみると、不思議なものですね。

 そこのところ、皆様はどのようにコンテンツを捉え、享受していらっしゃるのでしょう。興味深いものです。
 僕は自分の感覚しか分からないので、他の方のこういった話も伺いたいな、と思います。
 良し悪しという意味ではなく、いち興味として。

Illust_Fukami 深海 怜/寺谷まさとみ



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