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<小説>ハロー・サマー、グッバイアイスクリーム 第八回 白昼夢の見方

少女売春組織の中間管理職鈴木が名古屋によく似た街で爆弾テロと政治的陰謀に巻き込まれていく。
南方から仕入れた少女小夏の初仕事が迫っている。

ニシ生まれの人間がタワーの向こう側でいい暮らしをしようと思ったら、死ぬ気で勉強して奨学金で一流大学を出て上流入りを目指すか、ヤクザ者になるしかない。
それ以外はタワーの向こう側の連中に奉仕する労働者しかない。

あらすじ

Chapter 7 白昼夢の見方

 ビニール紐が食い込んで指先はほとんど紫になっている。近所のスーパーまで紙の束を両手にぶら下げて歩いた。
 陽は頭の真上にあった。どう歩いても焦げる。たった数分で鼻や頬がひりひりとしてくる。少しでも焦げる面積を減らすために顔を下に向けると今度は後頭部や延髄が焦げる。田中のキャップを借りてきたほうがよかった。
 全てが紫ががって見えた。
 紫ががった意識で最短距離を進むために路地を縫う。建物の頭ごしにツインタワーがどこからでも見えた。
 斜めに走る古い道の痕跡が裏道を余計に複雑にする。地権は細かくの所有され、その上物の建物の権利も複雑に入り組んでいるために、再開発計画は何年も放置されたままだ。
 人家の軒先みたいな細い路地には住居に並んで食堂や居酒屋があって、いくつかからは酔った声が聞こえた。日雇い仕事にあぶれた連中が安酒を舐めているのだろう。最近は主要な企業がどこも減産を続けて、仕事にあぶれた連中が増えている。
 その中で店に入る金もない者は駅前の格安チェーンのプライベートブランドの酒を買ってそこかしこで酔いつぶれている。
 鉢植えや花壇の花が常に視界に入る。住人か、かつての住人がそこに気まま置いたものだ。
 花がこの街の住人は好きだ。赤、白、紫、ピンク、黄色、俺の語彙では表現できない色のほうが多い。
 地べた、平屋の軒先、マンションの駐車場の隅、塀の上、塀の隙間に挿された空き缶、不法投棄された粗大ゴミの上、玄関脇、自動販売機の足元に放置されている。
 店で買ってきたものもあれば、ペットボトルを切って公園の土を詰めただけのものもある。
 花が咲いている新しいもの、ほとんど干からびているもの、灰皿にされているもの、茎の残骸が立っているもの、不気味なほど背の高い草が伸びているもの、一つの鉢植えに何種類もの花が混ざったもの。
 勝手にアスファルトを剥がした自家製農園には野菜が植えられている。
 そのキュウリを食うつもりなのか?そこに限らず鉢植えを狙って横歩きで小便をする酔っ払いを何度か見かけた。驚くことに、それも一人じゃない。
 堂々と大麻が栽培されているものもある。茎に油虫がたかるほど見事な出来だ。しかし栄養分が小便だと思うと吸っても悪酔いしそうだったが、野菜も大麻も定期的に収穫されていた。これも有機栽培なのかもしれない。
 花や草は指先ですり潰した匂いつき消しゴムのような匂いがする。
 小便、排気ガス、土、漏れ出した自動車オイル、魚屋、緑色に濁った防火用水層、螺子工場、誰かの昼飯、すれ違う老人の饐えた加齢臭、幼児の乳臭さ、化粧品、香水、酒、古紙回収の中年の汗が染み込んだ軍手、全てが雑に混じり合って鼻に入る。
 俺はこの街を歩くだけで、特に夏は疲れる。
 疲れたからビールを買って飲んだ。250mlのミニ缶だ。
 管理売春組織に就業規則なんてものはない。俺を懲戒免職にできるのはボスだけだ。
 事務所の横にある公園に来た。ベンチに座り込んだ。いっそ寝転がりたかったがベンチの真ん中に手摺がついているからできない。後ろの茂みから子猫の鳴き声が何匹分か聞こえた。そして茂みは小さくて白い花が群がっていて甘い匂いした。
 ピルケースからエンパシオンを2錠掌に振り落としてボトルの水で飲下す。すこし粉っぽい味がする。ベンチのうしろの茂みは白い花が集まっていて甘い香りがしていた。
 これが処方箋で手に入るようになって助かっている。前はアンフェタミンやウィードを売ってる売人から警官の目を気にしながら買うしかなかったし、質もばらつきがあった。
今でこそエンパシオンというそれらしい製品名がついているが、元々はクラブで遊ぶ若い連中がエクスタシーとか呼んで使うことが多いもので、そういう客に売るためにアッパー系が混ぜてあるのにあたるとテンションが上がりすぎたり、サイケデリック系が混ぜてあると大抵悪酔いした。これで身を持崩すのは主成分であるMDMAよりもむしろ混ぜ物に中毒するからだ。
 俺は医者に処方される抗うつ薬の代用としてエンパシオンを使っている。パーティーへ行く趣味はないし、アッパーもサイケデリックもいらない。処方された抗うつ薬はどれも気分を落ち着けるというよりも脳みそを鉛にする作用しかなかった。
 しかしエンパシオンの効き目は多幸感そのものだ。精神科医やカウンセラーのセラピーより100倍は役に立つ。ドーパミンやセロトニンを強制的に分泌させるのだ。
 効いてくると、全てが幸福に拡大解釈される。
 広場の反対側には遊具がある。何人かはブランコを揺すったり、今どき珍しい回る円形の籠みたいな遊具に10人くらいの子供がたかっていた。
 俺はそれを眺めた。
 シーソーで遊んている二人のうち片方は、体重移動の仕方がわからなくてずっと上半身を伸ばしたり縮めたりしていた。
 黄色いビニールのボールを投げようとしている子は、ボールを持った右腕と右足が一緒に出ていた。
 水鉄砲で撃ち合いをしながら走り回っている男の子と中に混じって女の子がいた。女の子が水飲み場で空になった水鉄砲に水を入れ直していたところに一人の男の子が撃った。一人が撃つと残りも集まってきて集中放水になった。
 リロード中は無敵状態になるという暗黙のルールがあった気がする。されるがままになっていたが女の子は水鉄砲を放り出すと水流を全開にすると蛇口を指で潰して無差別に水をばら撒いた。
 そうすると全部が水浸しだ。男の子達が声を上げた。遊具にいた子供達も集まってきてみんなで水を掛け合いが始まった。水鉄砲や、砂遊びに使う青いバケツや、ペットボトルで水を汲んでは掛け合った。
 楽しくて仕方ないように見えた。全ての子供が幸せそうに見えた。
 しかし母親達は俺を警戒している。
 ビールを飲みながら子供を眺めているのは変質者でしかない。互いに目線を無線みたいにしてサインを送り合っている。
 俺から見てブランコを挟んで反対側、大きなサングラスをした男が公園の外に停まった車の中からこちらを見ていた。
 ありふれた国産車のありふれたカラー。俺の目線に気付いたのか男は車を発進させた。あれこそが不審者だろう。
 ふと、遊具で遊んだ後の掌の鉄臭さが鼻に浮かんだ。それと母親に握らされてふやけた硬貨を思い出した。
 
 母親と暮らしていたのはせいぜい3年くらいだった。でも、それがずっと続くように思っていた。冬や秋の記憶はない。母親のこぐ自転車の後ろに乗せられて見えた景色は、大体が春か夏のような気がする。しかし幼児に季節は理解できないから、母親の背中の温かさやその匂いが、寒さを感じさせなかったのかもしれない。
 春と夏だけが繰り返していた。毎日を二人で過ごしていた。
 母親はたまに俺にはわからない言葉でなにかを呟いていた。歌うように祈るように。口にする時は嬉しそうな顔ではなかったから、意味を訊くのが怖かった。
 
 中年がカップ酒片手に公園へ入ってきたのは陽が傾きかけたころだ。母親たちの警戒は男へ移った。エンンパシオン効果も減退期に入っていたと思う。切れかけた幸福感は男を見たことで一気に減速した。
 減産で仕事にあぶれた一人だろう。作業服は垢や脂で黒ずんでいる。肌がどす黒いのは日焼けのせいだけじゃないだろう。それが酒で赤らんで腐りかけのスイカのような色をしている。男は俺の前を通って水飲み場へ向かいかけたが、母親たちの連携した視線と立ち位置で男の接近を妨害した。
 男はやけにぬめった舌打ちを鳴らし、よりによって俺の座っているベンチに向かってきた。木陰に入っているベンチは他にないからだろう。サングラスごしに拒否の視線を送るが、俺の横のスペースにどすんと腰を下ろす。酒臭いでは足りない。便所にこぼれた酒を拭いた雑巾を放置したらこんな匂いになる気がした。
 中年が話しかけてきた。しかし見ると顔は俺に向いていない。俺ではない誰かに話しているのか、真に迫った独り言のようだった。
 中年は何度もツインタワーを指して罵った。ヒガシからは高いビルに遮られて地上から地上80階のタワーを意識することは少ないが、こちら側からはどこにいたって見える。独り言は酒や何かでもつれた脳みそと舌のせいで聞き取れない。しかしそれが何語だったとしても中年の口から出ているのは吐瀉物まじりの呪いなのはわかる。
 田中が言っていた。ニシ生まれの人間がタワーの向こう側でいい暮らしをしようと思ったら、死ぬ気で勉強して奨学金で一流大学を出て上流入りを目指すか、ヤクザ者になるしかない。それ以外はタワーの向こう側の連中に奉仕する労働者しかない。
 簡単なのはヤクザだ。当然志願者も多いが脱落者も多い。あっさり死んだり、気が狂ったり、長い懲役を喰らいこんだりする。
 立身出世を目指す者も少なくない。特に新興移民の中には子供に自分の食費も惜しんで勉強をさせる者が多い。子供の将来を想う気持ちもあるだろう。だが円が弱くなったとはいえ、この国で立身出世がかなえば母国では考えられないほど稼げる。その金で母国の親族を呼び寄せてやれる。
 しかし自分の将来どころか一族の将来まで背負わされて平気な子供は多くない。自殺したり、気が変になるする。受験ノイローゼはとっくに日本社会では死語になったが、ニシではまだ生きている。
 中年はベンチから立ち上がると公衆便所へ向かった。
 ビールを啜った。ぬるくなったビールはただ苦い。子供達は走り回っている。
 ふと事務所のマンションを見る。小夏がベランダにいるのが見えた。欄干の上で腕を組み、その上に顎を乗せている。遠くて表情はわからない。
 小夏の初仕事が1週間後に決まっていた。

第九回に続く
隔日更新予定
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