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けものフレンズ3, 8章を終えて

先日けものフレンズ3の8章をクリアして,いわゆる「ドールショック」を体験しました.
その時の感想を記しておこうと思います.

自分語り

けもフレ3は公開直後にインストールしてしばらくプレイしていたものの,飽きて放置状態となっていました.
これはけもフレ3自体に問題があったというよりは,私の好き嫌いによるところが大きいです.私は結構コンシューマーゲー原理主義派で,昨今のスマホゲーがあまり好きではありません.
特に一番嫌いなのが「スタミナ制」のシステムです.ゲームを進めるために現実である程度待たなければならないというのは,短期間にガッツリのめり込んでプレイしたいタイプの私にとって最悪の相性でした.

そんなこんなで「ぱずるごっこ」と共にスマホ容量の肥やしになっていた3ですが,ある日けもフレ3がTwitterトレンド入りしていることを目撃.TwitterのTLやリプライにも後押ししてもらって,数カ月ぶりに隊長の役職に復帰したのでした.

ストーリークエストの進捗は3章をクリアした段階で停止していましたが,ちょうどスタミナ半減キャンペーンをやっていたこと,スタミナ回復ドリンクが200個以上残っていたこと,いつか手に入れた任意の星4フレンズ交換券が未使用のまま残っていたこと等が重なり,ストレスなくストーリーを進める環境が整っていました.

はじめはなんとか8章まで到達するぞ,という義務感で突き進んでいたのですが,だんだんとストーリーが面白くなってきて,義務感ではなく純粋に楽しみながら進めることができるようになってきます.

6章がすごかった

ストーリーの素晴らしさについて,特筆すべきは6章でしょう.(同時に,ツチノコちゃんとジャイアントパイセンをメインアタッカーとする我が探検隊にとって,タイプ相性上最も攻略が困難な章でした.そういう意味でも思い出深いのです.2回攻撃やめちくり〜)
サンカンチホーの地下に構築された巨大違法建築「オデッセイ」への巨大セルリアンの封じ込めと,そこに取り残されたフレンズ達の救出を軸とする大規模な作戦が展開されるわけですが,色々と神話的なスケールを感じさせる要素が織り込まれているのが大変印象的でした.

まずは「オデッセイ」という名前ですが,これがまず意味深です.一般的に,odysseyという単語には「神秘的で長期的な放浪の旅」といったニュアンスが含まれますが,元をたどると古代ギリシアの英雄叙事詩「オデュッセウス」に由来します.もちろん,オデュッセウスは「千の顔を持つ英雄」にも取り上げられているザ・モノミスです.

巨大セルリアンを迷宮の最深部に封じ込める作戦も,やはり明らかにギリシア神話におけるミノタウロスの伝説に由来しているでしょう.
ミノタウロスという怪物をダイダロスに命じて作った迷宮に閉じ込めた,という話です.

オデッセイ深部につながるスタッフ用の通用口を開ける呪文である「Open sesame」も,特に理由なく「開けゴマ」が使われたというよりは,「千夜一夜物語」や「アリババと40人の盗賊」に関係する何らかの意図をはらんでいるように思えます.

オデッセイは地下に広がる迷宮ですから,Kemonomythで指摘されていたとおり,地上世界のガイドであるラッキービーストはガイドとして機能しません.
「ツチノコがガイドとして,物理的にボスと取って代わるのは,ツチノコが生者の世界ではなくこの地下世界でのガイドであり,ボスが地下世界ではなく生者の世界でのガイドだからである」(Giraffe-anon,拙訳)
からです.

カレンダとオイナリサマの問答

一連のストーリーの終盤では,オデッセイから脱出しようとする探検隊を落盤が襲い,隊長(プレイヤー)とドール副隊長,そしてカレンダが他の探検隊メンバーと取り残されてしまいます.
6章9話のタイトルどおり,「地の底」に取り残された彼らのもとにオイナリサマが現れ,カレンダは彼女に自身の過去を打ち明けます.
8章に繋がる様々な要素が登場する,という意味でも物語上重要なエピソードではありますが,このイベントもまた,実に神秘的なイメージを感じさせます.

6章11話バトル3でのカレンダとオイナリサマの会話は,まずカレンダとフリッキーの過去についての独白から始まります.フリッキーとは,彼女の幼少期に共に過ごしていた犬の名前であること,何らかの事件の際にカレンダの命を救って犠牲になったこと,そして,それが現在彼女が「動物の研究者」となったきっかけであったということが明かされます.

続いて,彼女はボスとの関係について言及します.彼女はボスを「パパみたいな人」と形容するほどに慕っており,彼の指示を疑うことなく実行してきたこと,そして,それが誤りだったかもしれないことを打ち明けます.

そんなカレンダに,オイナリサマは「最善を選び続けた結果が取り返しのつかない未来につながっていても,それが耐え難い過去になったとしても,前に進み続けるしかない,それが生命というものだ」というような慰めの言葉をかけます.

冒険(オデッセイ)の最深部,過去と現在と未来が交わる地点,父親とのAtonement(贖罪/一体化).一連のイベントは,けものフレンズ1期11話でかばんちゃんがパークガイド権限を付与された,いわゆる「戴冠の儀」に含まれていた象徴性に近いものを感じさせます.

8章の感想

閑話休題.もともと8章の感想を述べる記事だったのですが,だいぶ脱線してしまいました.
ここからは考察要素の比率を下げ,感情のステージに上がってお気持ちを述べていきましょう.

8章には,ドールショックの効果を最大限高めるための「これまでに経験したことのない違和感」が巧妙に配置されていたように思います.開始早々に消費スタミナ0,バトルのないステージが導入されたことが,今思うとその第一歩でした.

第9話では,やはり見たことのない,画面が真っ赤になる演出とともに隊長が倒れ,それ以降ラスボス戦を除いて「隊長不在」状態での戦闘を強いられます.

隊長不在バトルでは,フレンズに対する一切の指示や隊長スキルの発動ができない上,フレンズたちのオーダーフラッグやたいきスキルといった情報もマスクされます.単なるオート戦闘ではなく,オーダーフラッグがシステム上もマスクされているらしく,コーラスが全く繋がらないのがニクい演出です.
不思議なもので,もともと,基本的にすべてのバトルをオートでこなしてきたにも関わらず,いざオート戦闘を強制されると,隊長としての務めを果たせないことに悔しさを感じました.もう完全にストーリーに没入しちゃってます.

余談ですが,私はこういう,「これまで当たり前に思っていたゲームシステムが,ストーリーに干渉されておかしくなる」系の演出が大好きです.マザー2の”いのる”とか,斑鳩の60秒回避とか,ドラクォの”○ボタンを離すな!”とかとか.なので,「ラスボス戦が実質イベント戦闘なのはクソ」という意見には反対だったりします.

「隊長不在バトル」は,プレイヤーから操作権を剥奪するという点で,「バイオショック」の例の演出を思い起こさせてくれました.(あまりネタバレしたくないので詳細な言及は避けておきます.)

また,「隊長不在」のインパクトが大きすぎて見逃してしまいますが,そもそも「バトルに特殊な縛りが付与される」というのも,初めて導入されたシステムです.これは最終戦で「ドール参加不可」(ドールちゃんの編成不可+全員が「からげんき」状態)縛りの導入に対する唐突さを軽減することに繋がっています.

怒涛の特殊演出攻勢は止まりません.続いて,ストーリーもヤバい感じになってきます.隊長たちを助けに来たフレンズの輝きはハンターセルリアンに次々と奪われ,食い入るように紙芝居を見つめていると,ある時点で唐突に画面が暗転し,ストーリー中にムービーが挟まるという展開に.

もうヤバい.開いた口が塞がりません.

ドールショック

そして問題の最終8章12話.まず,ステージを選択する時点で嫌な感覚に襲われます.ストーリーでのセリフの抜粋として,カレンダが「奇跡,奇跡だわ…!」と発していますが,後発組である私は既にストーリーが悲惨な終わり方をすることを知っています.完全に騙しにきているのです.前情報なく,いつものような奇跡を信じてステージを開始した隊長さん方の心労たるや.

ストーリーのタイトルが「ようこそ,ジャパリパークへ」となっているのも,実に不気味です.誰かが新たにパークに来る展開には到底思えませんから.

さて,久々の「隊長不在」ではないバトルですが,敵であるフリッキー型セルリアンの造形のおぞましさといったら.
「セルリアンに輝きを奪われる」という災害について,これまでは「我々が輝きを失う」という側面に焦点を当てて,その恐ろしさが語られてきました.記憶喪失の恐ろしさと言い換えても良いでしょう.
しかし,フリッキー型セルリアンはそのもう一つの側面,すなわち「彼らが輝きを得る」という側面のおぞましさを示すものでした.思い出に対する冒涜と言い換えられましょうか.カレンダはそれを見て,「全部奪っておいて,その上まだ奪うのか」と声を荒らげるわけですが,フリッキーの過去や名前の由来を知っている我々にも,当然その怒りは共有できます.

そんなこんなでバトルに突入するのですが(もちろんオート戦闘ではなくマニュアルでプレイしました),まず驚くのがフリッキー型セルリアンの巨大さです.カメラは普段よりもずっと引きの地点に置かれ,フレンズたちが豆粒ほどの大きさにしか見えません.しかも,2つの脚を倒すと,本体が現れ,史上初(?)の第二形態に突入します.もう完全にラスボス戦じゃないですか.

幸運なことに,敵はラブリー属性であり,マイペース属性のツチノコとジャイアントパイセン,そして助っ人のブラックジャガーを主戦力とする我が探検隊は有利に戦闘を進めることができました(ヤツがラブリー・フレンドリー属性なのも,実に冒涜的ですね).
ツチノコとブラジャーを除く隊員が斃れ,敵の必殺技ゲージもMAX寸前,ここで仕留め損ねたらゲームオーバーというギリギリの状況でしたが,なんとか倒し切ることができました.

そして発狂へ

バトル後のストーリーで明かされる,「ようこそ,ジャパリパークへ」の文脈.もう気が狂うんじゃ.何という悪意ある切り取り.ついでにクエスト画面から消えるドールちゃんで追い打ちをかける始末.てんとう虫助けて.SEGA許さんぞ.

11話ショックの再来との呼び声の高いドールショックですが,そのインパクトについては11話ショックに並ぶ,あるいはそれを超えるものがありました.けもフレ1期にも視聴者をストーリーに取り込み,没入させるトラップが巧みに仕込まれていましたが,アニメという媒体である以上,その試みにも限界があります.けもフレ3はゲームというインタラクティブなメディアであることを最悪の形で生かしてくれました.

ルドナラティブ・ディゾナンス

同時に,これまであまり好きじゃなかった典型的なスマホゲーの様式に対する認識を改めさせてくれました.

あまり詳しくないので突っ込まれると怖いのですが,近年のゲーム開発においては,「ナラティブ」という概念が重視されています.

「AI」と同じように,色んな人が好き勝手に「これがナラティブだ」と主張したおかげで定義のよくわからない言葉になってしまっているのですが,要は「プレイヤーをストーリーに没入させるのが大事だよね」という話です.(というか,これを私の「ナラティブ」の定義ということにさせてください.)

この観点から言うと,スマホゲーがナラティブを大切に扱えているか,というのは,かなり怪しいところがあります.「プレイヤーはストーリーを読みたい,そのためにバトルを突破しなければならない,そのためにスタミナの回復を待つか,さもなくば課金せよ」という構造においては,ゲームが単にストーリーを進めるための阻害としてしか機能せず,ゲームとストーリーの間に不協和が生じてしまうのです.

けもフレ3においても,ストーリーと何の脈絡もなくセルリアンとの戦闘が挟まれたり,ストーリー上隊長と行動を共にしていないはずの,あるいは探検隊に所属していないはずのフレンズと共にバトルに突入したりという事態が頻繁に起こっていました.
こういったゲームとストーリーの不協和は,「ルドナラティブ・ディゾナンス」なんて呼ばれたりもします.前述のバイオショックを引き合いに紹介している記事があったと思うので,興味があったらググってみてください.

8章で導入された,バトルのないステージや隊長不在バトルといった諸々の仕掛けは,まさにこの不協和を軽減するものだったと思います.

スマホゲーもなかなかやるじゃん!

ナラティブを求めて,コンシューマーゲームはどんどんとプレイヤー主導型に,すなわちマルチエンディングにしたり,オープンワールドにしたり,そもそもストーリーを与えずに自ら作り上げるよう仕向けたり,と発展してきました.

一方,現在日本で主流の,けもフレ3に近いシステムを持つスマホゲーの多くは,インタラクティブ性のない完全一本道ストーリーを,細切れにしてゲームクリアの報酬として与えるだけのシステムとなっています.

「オート戦闘」なんてシステムが存在して,しかもユーザーから好意的に受け止められているのは,プレイヤー側も既にゲームとストーリーのレゾナンスを諦めていることの現れでしょう.

これが,私がスマホゲーを好きになれない理由の一つでした.

しかし,けもフレ3は,スマホゲーが必ずしも悪ではないこと,工夫次第でプレイヤーを没入させることは十分に可能であることを証明してくれました.

私自身,フリッキーセルリアンとの戦闘では,もはや「ストーリーを進めるために」ではなく,「ヤツを倒すために」ゲームをプレイすることができたのです.自分の中で,ゲームとストーリーがほぼ完全にハーモニーした瞬間でした.

こうして振り返ると,あえてオート戦闘を強いる「隊長不在バトル」の導入にも,単なる演出に留まらない,メタ的なメッセージのようなものすら感じ取れそうです.

今後に向けて

さて,最後に,今後の救いについて述べておきましょう.11話ショックのときには,次回タイトル「ゆうえんち」から展開を予測することで気を紛らわせたりしていた(というか,それが私が考察班を始めたきっかけだった)わけですが,今回のショックではそういったヒントすら与えられていません.次章の舞台がどこになるのかもよくわからないのです.(パークセントラルなのかなという気はしますが.)

しかし,未回収の伏線はまだ残されています.6章11話で,オイナリサマはカレンダに「お守り」を託しています.8章クリア報酬として支給された,探求の最深部で地母神的性格を備えた神から与えられたあのフォトです.

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「千の顔を持つ英雄」の「父親との一体化」の章で,ジョーゼフ・キャンベルはこう言っています.

「この厳しい試練の中でこそ,英雄は,助けてくれる女性から希望と安心を得られる.女性から授かった魔法によって,父親が施す自我を砕くイニシエーションという,身も震える経験の間ずっと守られるのである.」

キャンベルを信じろ.カレンダさんを信じろ.SEGAを信じろ.

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