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自分語り【とあるHSS型HSPの人生〜幼少期編〜】

今から約30年前、父の転勤先の某所に誕生。
両親の愛を受け、すくすくと育っていった。
おとなしい子どもだった。でも、父が仕事に出かけるのが嫌で駄々をこねたりする、普通の子ども。
後に母に訊くと、そんなに手はかからなかった、との事だった。

弟が産まれるまでの3年間、公園に連れて行ってもらったりして少し友達はできたが、家では母が家事をしている間はぬいぐるみとままごとをしたり、ひたすらNHKの教育番組を観ていた。(今はラインナップ増えたけど、朝と夕方に同じものを放送するのやめてほしいw)
当時は「つくってあそぼう」のわくわくさんが好きで、それを観ながら同じものを作るのが好きだった。

まだまだ専業主婦が多かった時代。今では少数派になった2年保育だが、多数がそうで、私もまたその内の一人だった。

1年目は母と離れるのが嫌で、バスに乗るのをすごく嫌がって、ごねた記憶がある。トイレに篭ったりもした。だけど、次第に慣れて、幼稚園を楽しむようになった。友達も少しずつ増え、私の事を取り合いしてくれるまでになった。

私立の幼稚園で、あの頃に戻りたいと今でも思うほど、楽しかった。特にイベントに力を入れており、運動会では全園児がマーチングで入場したり、作品展では部屋一面にみんなで作った大作が各クラスに展示された。

特に演劇発表会の事をよく覚えている。

1年目の劇では3人で前に立つナレーターをしたが、2年目(年長)は「白鳥の湖」のオデット姫になる事ができた。競争率が激しいと思われたヒロインだったが、前半と後半の2枠の内、私ともう一人だけが手を挙げて、即決だった。沢山手が挙がる事を想定して勢いよく手を挙げたので、2人だけだったのが少し恥ずかしかった。

幼稚園の先生による演技指導も楽しかった。
バレエ風の動きもあって、指先まで白鳥になりきった。当時住んでいたアパートは狭かったが、母から見えないように、こっそり練習していた。
私は前半のオデット姫で、キラキラ付きの紙でできた白鳥を頭に被っていたが、後半の女の子はキラキラの紙でできた冠を被っていたのが幼心に多少不服だった。でも演技に集中して、発表会は無事終了した。
大人になってからその時のビデオを観たが、自分で言うのも何だが、なかなかの完成度だった。

この幼稚園の生活が、今の自分を作る基盤になっているように思う。

つづく

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