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1.5次避難所でのボランティア

タイトル通り、この記事では能登半島地震による被災者が「暫定的に」避難している避難所である1.5次避難所(金沢市)でのボランティア活動について書こうと思う。記憶が新しいうちに書いておこうという気持ちで筆をとったため、相当まとまらない話になることをご容赦いただきたい。
(以下、「前段」を付けたが、さっさと1.5次避難所ボランティアの中身について知りたい人は「いざ、1.5次避難所へ」に飛んでほしい。)


前段(「3つの私」を持つことの挫折)

私は新卒で入った会社で、「仕事、プライベート(家庭など)、そして市民としての3つの顔を持つことが大事」だと当時の主任に教わった。この3つの活動と価値観が一人の中に備わってこそ大人として成熟し、仕事においても「良い仕事」ができるようになっていくのだと。

良い考え方だなと思った。と同時に「プライベートもほぼないのに、市民要素まで、不可能じゃね?」とも(選挙は当然行くよ!)。当時私の残業時間は月130を超えていた。180の月もあったかな?大好きだった趣味に使う時間はなく、仕事以外で人との出会いもないので浮いた話もなく。ひたすら仕事をし、仕事で壊した体調を点滴を打ちながらギリギリ戻すだけの毎日だった。土日は出勤でなければ通院だった。やばいね。でも別に不幸じゃなかった、仕事好きだったし。

ただ、不幸じゃないにしてもバランスの悪さは感じており、何かちょっとでも仕事以外の要素を入れようとしていた矢先、尊敬する別の先輩が「毎週土曜の朝に道頓堀の掃除に行っている」と聞いたので一緒に行くことにしてみた。道楽(どうらく)という集団による活動だった。朝の道頓堀はゴミと汚物にまみれていて、掃除しがいがあった。所々でホストなんだかホステスなんだか、とにかく若くて威勢のいい人々が痴話喧嘩をして血を流していた。そういう時は警察も呼ばれて、非常に「らしい」感じでよかった。ボランティアにくる人々は気持ちがよくて前向きで、なんというか「心がけの良い」人々という感じがした。貴重な土日をわざわざボランティアに使う人って結構変わってるのかなとちょっと警戒していたんだけど(めちゃくちゃ自分を棚に上げている)、意外とええ感じだと思った。余談だがここに集う人々には致知という雑誌を購読する若い層が多く含まれており、私はその後若獅子の会という集まりにも呼ばれ、致知の編集者に「あなたうちこない?」と言われるという(本気じゃないだろうけど)エピソードもある。懐かし。

さて、しかしながら、そのボランティアは私にとって続かなかった。道頓堀から数駅のところに住んでいて、通う困難も多くはなかったにも関わらず、だ。やっぱ単純に面倒になったのだ。そんな経験を下敷きにして、今回の地震がある。私の住む場所はそこまで被害が大きくはなかったが、能登半島(というのは石川県の北半分のことである)の被害はご存じの通り。被害状況がわかるにつれ、私はサバイバーズギルトのような気持ちに襲われた。同じ県で、家も家族も仕事も失った人がいるのに、私は普通に楽しく暮らしていていいのか。何もできることはないのか。「元気な人は経済を回すことが大事だよ」と言われても、どこか心が納得いかない。ちなみに夫は数少ない「被災者に直接貢献できる職種の人」だった。キャパを超えて働きまくる夫を心配もしたが、直接できることがある人はいいなと少し羨ましくもなった。

そしていよいよ1.5次避難所のボランティア募集が始まる。1.5次避難所はあくまでも暫定的な避難所で、1次避難所同様テント暮らしではあるんだけど、余震の続く被災地から離れて安全かつ物資の手に入りやすい場所に一回移動しましょうという意図でつくられたもの。仮設住宅や、介護が必要な方は介護施設への入所が決まるまでの居場所である。私は育児その他諸々の都合上、被災地まで乗り込んで瓦礫撤去などをするボランティアには名乗りを挙げられなかったが、こうして近場でできることがあるならぜひやろうと思った。それで申し込もうとしたら、1月中は皆がボランティアに殺到し、全く予約が取れなかったんスよ!なんだこれ!人気アーティストのライブばりの競争率の高さに唖然としつつ、その後も募集があるたびに予約を試み、ようやく最初の予約が取れたのは2月上旬だった。

いざ、1.5次避難所へ

朝の9時50分、体育館につく。スマホで自分の名前を登録して(予約はしてあるが、実際にきたことの確認だと思う)、しばらく待機し、その日のボランティが揃ったところでスタッフに誘導されて避難所の中に入っていく。

1.5次避難所の様子を説明しておこう。
まず、前述のように避難所があるのはとても大きな体育館のアリーナである。エリアは2つに分かれており、一つは一般の避難者用、もう一つは医療的なケアが必要な人用のエリアになっている。後者には医療スタッフが専属で張り付いている。どちらも広い空間にテント(個室)が立ち並んでいる。

私は基本的には前者のエリアにしか入ったことがない。そして前者のエリアでやることは、基本、掃除である。この、「ボランティアは基本的に掃除しかやることがない」というのは大変良いことらしく、避難所の形態としては最終形態に近いくらい完成されているのだそうだ。確かに、もっと大変な避難所だと、飲み水が足りないから運んでこようとか、トイレを作らないといけないとか、汚物の処理運搬を考えなくちゃとか、雨漏りを直そうとか、そういうことになるのかもしれない。スタッフからは、「敵は感染症です」と言われた。フロアワイパー(クイックルワイパー(ドライタイプ)の巨大版)をかけるorあちこち消毒して回るor絨毯エリアを粘着コロコロをして回る、の三択で、基本どれを選んでもよかった。あ、あとは洗濯係が必ず2名任命された。被災者さんの洗濯物を洗い、ご本人まで戻す作業。これは女性のものは女性が洗う、男性のものは男性が洗うと決まっているため、男女1名ずつ任命された。(私はやったことがない)

石川県ボランティアと書かれたビブスを着用し、しばらく掃除をする。11時になったら食堂エリア付近に召集がかかり、ケータリング会社からどーんと大皿で届く惣菜類を、一種類ずつ弁当箱容器に詰めて行って100人超分の弁当の形にしていく。この「おかずを弁当箱に詰める」作業が結構難しい。というのも被災者さんはご高齢の方が多く、2月時点ではご飯は軟飯、おかずも煮物やマカロニやと、要は自立姿勢を保ってくれないような柔らかいおかずが多かった。それを仕切りもあまりない弁当の容器に素人が詰めていくとどうなるか。ぐちゃぐちゃ。おいおいちょっとこれは、、、と思うほど見栄えが悪くなりがちで、大変焦ったものである。(色も、生野菜を入れられない関係上、トマトのようなフレッシュな色合いがなく・・・いや、味はとても美味しいんだよ!(初回だけフードロスの観点から余った弁当が配られたのだ。二回目以降は特に配布なし))

ただ、この見栄え問題はどんどん片付いていくことになる。まず二回目に行ったらご飯が普通の硬さになっていた。軟飯をやめたのだ。さらに4回目(5月)には食中毒の観点から「ボランティアによる弁当づめ」作業自体がなくなっており、ケータリング会社の方で完全な弁当の形になってから運ばれてくるようになっていた。見栄えも俄然良くなっていた。

ちなみに昼食にはインスタントの味噌汁がつく。具は選べるが、豆腐が人気ですぐなくなる。海苔とかワカメが不人気がち。この味噌汁係は結構焦る、どんどん行列ができるのに、ちゃんと具の注文を聞いてから作らないといけない(作り置いてはいけない。実は私、最初それをやろうとしたら叱られた。やはり目の前で作ってあげるのが大事なんだと反省した)。
少し元気な人は自分でコミュニティバスを乗り継ぎスーパーで食べたいものを買ってきて、それを食材としてアレンジして食べているのが興味深かった。「味噌汁の、具なし、汁だけ欲しい」という人がいたので、汁だけで満足できるのかなと不思議に思ったら、その人は真っ白なハンペンを自分で三角に切って、それを味噌汁に浮かべて食べるのがお好きなのだった。キャンプ飯のようでいかにもうまそう。この日以来私も自宅でハンペン味噌汁をよく作るようになった。

話を戻すと、避難所の昼食には他にもバナナやヨーグルトがついたり、お弁当じゃなくてパンやおにぎりを選べたり(お弁当+パン、でももちろんいい。ただ、ご高齢者が多いからか、そこまでの食欲がある人はいなかったような)。ウィダーインゼリーのような飲み物、牛乳、ペットボトルのお茶なども常備されていて、結構充実しているなと思った。ただ、一週間もいたら飽きるだろうなとも。

変化する避難所

ここまでがボランティアとして避難所で「やった」ことなのだが、2月から6月にかけて通ってきた中で、避難所の空間や時間の使い方が柔軟に変化していることにも私は感心した。

まず2月ごろは震災の痛みがまだヒリヒリと感じられて、スタッフさんからも「家が全壊しているだけじゃ済まなくて、ご近所さんや、場合によってはご家族を亡くしている方もいるから、そういう話をわざわざ引き出そうとしないように」と事前に注意があった。もちろんわざわざ聞こうなんて思ってもいなかったが、改めて「これは必要以上にコミュニケーションを取るよりは、掃除に徹したほうがいいかもな」と思った。実際、お困りの方がいらっしゃったら声をかけることはあっても、それ以上私から話しかけることはなかったと思う。黙々と掃除した。

しかし二度目に行ったときには、基本的に前と同じでも、少し避難所の空間に違いがあった。まず、避難所の人数が減り、スペースが空いたことから、「居間」のような空間が新しく組まれていた。ソファが置かれ、テーブルが置かれ、人がそこで会話したり折り紙などの遊びができたりするようになっていたのだ。さらに印象的だったのは、「居間」には何百もの生花のスイートピーが能登半島の形に生けられ、腰の高さに展示されていたこと。そこに被災者さんが集まってきては、綺麗だね、いい香りだねと言い合っている。そしてスイートピー能登半島をそれぞれに指さしては、「私の家はここだった」と会話が始まる。津波で呑まれた家の場所を指し示す指は、しかし生きた花を指差してもいる。

三度目には二胡の演奏会があった。
スイートピー企画のような、「その場にあるものを見て、語る」癒しから、もうちょっとプッシュ的な癒しに移行した気がした。二胡の悠久の音色は聞いているだけで涙が出そうで、私も掃除の手を一瞬止めて耳を傾けた。

そして四度目には、ボランティアの仕事にも変化が出る。「塗り絵とリハビリの係」というのが新たに追加されたのだ。これは一言で言うと、被災者さんの遊びと運動を一緒にやるというもの。興味があったので挙手してその係をやってみると、隣に並んで座って一緒に折り紙をやったり(被災者の方で折り紙上手な人がいたので、むしろ私が教えてもらった)、塗り絵の腕前が素晴らしい方がいたので作品を鑑賞させてもらったりと、とにかく創作を介してコミュニケーションをとる感じだった。あとはオセロもした。避難所生活の中でオセロに目覚めた方がいらっしゃるのだ。一日三回、誰かを相手にオセロをしているらしく、本気でやらなきゃ失礼な空気があったので私も本気で戦わせてもらった。

五度目は四度目とほとんど同じなのだが、私はリハビリの方の係に周り、椅子に座ったままの「ボッチャ」というゲーム(ボールをできるだけ的の近くに投げて点数を競うようなもの)の補助をした。大変な盛り上がりだった(・・・が、実はこの日は早朝に緊急地震速報が鳴って能登でまた震度5を記録した日だったので、全体的には静かだった。テントの中から出てこられない人もたくさんいた様子だった)。
他にも、張り紙で見ただけだが「VRで遊ぼうの日」とかもあるらしく、かなりレクリエーションに工夫がある。この空間で身体や頭を動かして能動的にできること、を色々探してくる人がいるんだなと、誰かわからないその人に拍手したい気持ちになった。

ボランティアにくる人

私が最初にボランティアに入れたのは2月の上旬だと書いた。しかし驚いたことに、その日にいた他のボランティアさんはすでに何度も何度もシフトに入っていたことのある人ばかりで、「どないして予約取れましたん?」と呆気に取られるばかり。そして実に熱心で、心優しく、規律を守る人ばかりだった。人を助けることに真剣なのだ。(※ちなみに最近は随分予約も取りやすい)
彼らは何度も来ているから仕事をよく覚えており、さっさと作業に当たっていたし、衛生観念も高く、ちょっとでも避難所の外に出たら戻るときには靴の裏まで消毒していた。手も頻繁に消毒していたし、ゴム手袋も適宜捨てて交換していた。こういう人たちが避難所を感染症から守ってるんだな、これ一人でも「やらない」人がいたら終わりだな、なんて思った。
朝に来て、昼過ぎにシフトが終わるとさっと背広に着替えていく40代くらいの男性もいた。もしかして半休とってボランティアきてこれから出勤なのだろうか。
立ち話をしている人も、ちょっと聞き耳を立てたら「どうすればより避難者さんの役に立てるか、今こういうことでお困りなのではないか」ということを話し合っており、みんな意識が被災者さんにまっすぐ向いている。何度も来ている人はバイトリーダーみたいになっていて、率先して周りに教えてくれて。
世の中って意外といい人が多いんだなと。意外とってなんだよって言われそうだけど、うん、でも、正直そう思ったんだ。

私は変わったんだろうか

私は結局5回行って、もしかしたら避難所もそろそろ閉鎖されるかも知れなくて(良いことなのです、全員に次の居場所が決まるということだから)、でもまぁまだ閉鎖されないなら時間見つけて行こうかな、くらいの気持ちで。
「足繁く通っている」レベルでボランティアをしている人の足元には及ばないまでも、少しだけ、以前の「3つの私」を持つことに挫折した自分よりは進歩した気もしている。いや別に自分を進歩させるために行ったわけじゃなくて、本当に何か役に立ちたかったから行っていただけではあるけど、結果的にね。

で、なんで私なりに、忙しくても関心を薄れさせず、時間を見つけていくことができたかって、まずは問題意識の差。あまりにも当たり前だけど、まずはそこだったと思う。「3つの自分を作ってバランスを取るために」という目的でボランティアするのも悪くはないんだけど、私の中には特別「道頓堀をきれいにしなきゃ」と思う理由はなかったわけで。一方の地震はつくづく怖かったし、私の命なんて地球にとっちゃどうでもいいんだなって思ったし(別に何か理由があって生かされているわけではないのだ)。何より、「あぁ怖かった」で終われた私と具体的に大切なものをたくさん失った人たちの間にある差、その差が何かの基準で生じているわけではないのもまた眩暈がするほど怖く、足場が崩れるようで、突き動かされるように動こうとした。能動的に何かせにゃ自分の不安を自分ではどうにもできない感じ。

次に、単なる人手になることの妙な気持ちよさがあった。これに関しては実は道頓堀の掃除をしている時からあったんだけど、匿名の労働力になりきって無心に働くって、それ自体ちょっとイイんだよね。最近じゃ単純労働は全部機械が奪っちゃってさ、でもほら、ぼーっと皿洗ってるときに何か思いつくとか、むしろちょっと休まってるとか、人間にはそういうとこあるでしょう。常に生産性だ効率だ創造性だと求められ、「私らしく」とかも必要とされて、そういうのの反動があるんだろうと思ったよ。「誰でもいいから誰かやってよ」ってところに、ハーイっつって入っていける気軽さ。そういうの、失わないでいたいよね。(誰に言ってるんだろう)

最後に、なんかあの「善意でできた風景」というか、厳しい現実を見ながらも助け合っている人の姿に私が希望をもらっていたんだと思う。
壊れるのって一瞬。地震も、爆撃も。それに比べて復興とか回復って恐ろしいほど長い時間がかかる。でも、その長い時間をかけての一歩一歩の中に、人ってこういう楽しみや変化を作り出すことができるんだなっていうのをすごく学ばせてもらった。スイートピーに、二胡に、柔軟なレイアウト変更に、ハンペンの味噌汁に、オセロの対戦を挑んできたあの人に。普通のことかもしれないけどどれも心に残っている。あの場にいる人がみな幸福であることを願う。

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