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道の辺の花に、いちいち感動できるかどうか

田舎に住んでいると、たまに田舎に移住したいという人に色々と質問される事があります。

「田舎暮らしってどんな感じですか?」
「村の付き合いって大変なんですか?」
「交通の便が悪いので大変じゃないですか?」

などなど、あげ出すとキリが無いですが、田舎という未知の世界で、
どうやらキチンと「ご飯を食べる事が出来てそうな事例1」として、
そんな感じのザックリした質問をされます。

そう言われてもこちらは孫ターンみたいなものですが、子供の頃から田舎に住んでいるので、デフォルトの思考が違いすぎて何と答えたら良いものかと、
いつも頭を悩ませます。

けれど、そういう時に決まって言う事があって、
「季節ごとに道の辺に咲く花に、いちいち感動できるようになれば、田舎は結構幸せですよ」
と、全く質問に答える事が出来てない言葉を贈ります。

色々と考えてみても、近所付き合いは都市でも同じようにありますし、
公共の交通機関が不便でも、車で気楽に移動できますし、
都市にあるものが田舎には無いですが、田舎にあるものが都市には無いですし、
考えれば考えるほどに、住めば都じゃないですけれど、
そこにどのような心持ちで暮らすかの方がきっと大切で、
それでいくと田舎には、人より人以外のものが圧倒的に多く、
いわゆる農村や里山は、ほとんどが人以外のもので構成されています。
ちょうど都市と農村の図と地が反転したような構成です。

そうなると、都市生活に慣れ親しんだ人には「何も無い」と映るようで、田舎に慣れ親しんだ僕みたいな人間には「全部ある」と映っています。
全部あると言っても自然は自動では無いので、農村の風景はそこに住む人々の営みによって成り立っていて、
田畑も山も人が関わる事で、心地よい風景がそこに在り続ける事が出来ます。

例えば草刈りすると、そこの地面に自分の意識が行き渡ります。
山の手入れをすると山が他人ではなくなります。
野菜を自分で作って食べると、土が気になり出します。

そんな事をしているうちに、農村の大地と自分の身体の境目が無くなってきて、
「何も無い」と思っていた景色の中に、ひとつひとつ何かが見え始めて愛おしくなってきます。
個人や自我の領域が自分の暮らしている地域まで広がるような感覚。

いつもの景色にあった一本の木が伐られたら痛くて悲しいですし、
いつもの風景に似つかわしく無い建物が建つと、やるせなくなったり。

もちろん悲しい事ばかりではなく、長い冬が終わって、地面から萌え上がる春の生気にあてられて踊り出したくなったり、夏の入道雲と一緒にどこまでも高いところに登れそうになったり。
身体が環境に溶け出して、自然の移り変わりを感じるのにとても忙しい。

そこまで身体が変われば、自然の日々の変化に驚いて、散歩しても前に進まなくなるので、田舎暮らしはどこまでも楽しくなります。

極端な話、僕の収入がなくなって生活保護みたいな事になっても、
その身体性がある限りきっと人生は楽しく退屈はしないだろうと思います。
僕のマインド・ベーシックインカムです。

とは言え、家族も弟子も猫もいるので、そうなっては周りが困ってしまうので、
まだまだ頑張って働きますが。。

相良育弥

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