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あなたも、3年でプロのシナリオライターになれる!!(依頼・紹介編)②

 しかし、運命の女神は、いつ、どこで微笑んでくれるか分かりません。
 ある日、家に帰ると留守番電話のランプが点滅していました。また何かの勧誘か、アンケート調査の依頼だろうと思いながら何気なく再生すると、
「ある人に、あなたの書かれた小説が面白いということを聞いたのですが、是非、その作品を読ませていただけないでしょうか」
 と、メッセージが入っていました。
 その電話は、あるテレビ制作会社のプロデューサーからでした。あとで知ったことですが、その制作会社に私の小説を紹介してくれた“ある人”とは、大手広告代理店の元副社長でした。
 ある日突然、幸運が私の頭上に舞い降りてきた瞬間です。
 目的を持って生活している人には、ある日突然、追い風が吹いてくるということでしょう。
 その小説というのは、シナリオ形式でも小説形式でもいいという、あるコンクールに応募した作品でした。シナリオはできていたのですが、規定枚数をオーバーしていたので、小説に書き直した物でした。
 普通、コンクールはテレビ局、某シナリオ団体、出版社が主催者ですが、そのコンクールは、新聞、雑誌にもデカデカと応募要項が発表された、某大手企業主催のコンクールで、賞金も、大賞500万円という破格の物でした。
 企業が主催のコンクールですから、入選者からプロの作家を育てようという気はサラサラなく、あくまでその主催者企業の、世間の注目を引くための宣伝効果を狙ったものと思われます。
 その証拠に、そのコンクールからは、私の知る限り、一人もプロの作家は出ていないようです。
 そういう経緯なので、間に某大手広告代理店が入っていました。
 その関係で、私の応募した作品が、応募総数1,300本中の最終審査候補(5~10本)か、その一歩手前の50本以内に入っていたらしく、捨てるにはもったいない作品だと、広告代理店の人か審査員の人か主催者側の人が、その元副社長に話したものと思われます(詳しいことは不明)。
 確かに、コンクール入選の秘訣は、前編でも書きましたが、“どう書くか”ではなく、“何を書くか”です。そういう点では、この小説は、見事にその的を射た作品でした。参考までに、
http://www.amazon.co.jp/dp/B07F68272K

 この場合、コンクール主催者側の人が良心的だったからよかったですが、コンクールは、アイデアの宝庫なので、アイデアだけパクられることが多いのも事実です。私も、某テレビ局主催のコンクールに応募した探偵物のシナリオが、別のテレビ局の刑事ドラマに、そっくりそのままパクられたことがあります。そのときは、登場人物の名前まで同じでした。コンクールの一次審査は、テレビ局の人がやるのではなく、外部に丸投げなので、こういうことが起きると聞いたことがあります。

 数日後、その制作会社にその作品を持っていき、読んでもらいました。そのプロデューサーも制作会社の社長も面白い作品だと言って、某テレビ局の上層部の人に読んでもらったらしいのですが、制作のゴーサインは得られませんでした。
 私のシナリオの師である直居先生にもこの話をすると、
「う~む、テレビ局の連中には、この作品の良さは分からないよ」
 と言われ、妙に納得したものです。
 こういうときに、黒澤明監督の名参謀・本木荘二郎のような、企画が通るまで決して諦めない、敏腕プロデューサーがいれば、何とか企画が通って映像化され、大きな映画賞でも取れるのですが、そういう人には、なかなかぶち当たらないものです。
 ここでまたまた本木荘二郎の名前が出ましたので、ご紹介しておきます。
本木荘二郎(もとき そうじろう)-----昭和30年前後、映画『ゴジラ』のプロデューサー・田中友幸と共に、東宝の両エースプロデューサーと言われた人です。
 古い映画人や、映画通の人なら知っているでしょうが、一般の人には馴染(なじみ)のない、世に知られていない名前です。
 しかし、彼がいなかったら、黒澤明監督作品、『姿三四郎』『羅生門』『七人の侍』『生きる』は、誕生しなかったかもしれません。当然、世界のクロサワ、ミフネも世に出ることはなかったであろうことは間違いないほどの、映画界ではビッグネームです(ブログ 2018.9.27『ザ・プロデューサー』参照 http://ameblo.jp/ikusy-601/)。
 黒澤監督の記念すべき監督デビュー作『姿三四郎』は、黒澤さんが、まだ出版されていない『姿三四郎』の新聞広告を見て気に入り、
「本木さん、この原作許諾(きょだく)、取ってきてよ」
 と、頼み込んだそうです。
 しかしその作品は、まだ出版されていないのにもかかわらず、松竹、日活といった老舗の映画会社が、すでに作者の富田常雄氏にアプローチしていました。
 それゆえ、当時まだ新興映画会社の東宝では、とても取れないと思われていました。が、口八丁手八丁の敏腕プロデューサー本木荘二郎が、その原作許諾をものにしました。
 一説では、富田氏の奥さんが、1941年12月号の雑誌『映画評論』に掲載されていた、黒澤さんが書いた『達磨寺のドイツ人』のシナリオを読んでいて、
「あなた、この黒澤明って人、いいシナリオ書くわよ」
 と旦那さんに推薦したのが、きっかけだったという話もあります。
 この本木荘二郎は、黒澤監督が世界に飛躍した記念すべき映画『羅生門』でも、重要な働きをします。
 当時、黒澤監督は東宝を離れていたので、本木プロデューサーは、大映に企画を持ち込みました。
 当時の大映製作担当重役の前で、登場人物に成り切って本読みをして、口説き落として製作に漕ぎつけました。
 この『羅生門』という映画では、もう一つ興味深い話があります。この映画の脚本を書いたのは、当時まだシナリオライターとしてデビューしていなかった、橋本忍という無名の若者でした。
 その脚本は、橋本氏が師匠の伊丹万作監督(伊丹十三監督の父)に提出していた習作シナリオでした。伊丹監督死後、そのシナリオは佐伯清監督(映画『昭和残侠伝シリーズ』)から、黒澤明監督の手に渡り、映画化に至りました。
 前編で書きました黒澤明、三船敏郎の奇跡のような東宝映画会社への採用同様、これまた奇跡のような幸運です。
 私のシナリオの師である直居欽哉氏も、特攻隊の生き残りで、戦後脚本家を目指し、映画会社に企画を持ち込むも、すべて断られたそうです。直居氏が成すすべもなくなり、生活苦に追い詰められて、一家心中しようかと思っていたところ、その頃、映画スターの地位を確立しつつあった映画俳優鶴田浩二さんから、
「あなたの書かれた作品を、是非私にやらせて下さい」
 と連絡があり、デビューできたと直居氏から聞きました。
 その作品こそ、特攻隊を描いた日本映画史に残る名作、『雲ながるる果てに』です。
 その後直居氏は、123本の映画シナリオと、890本のテレビシナリオを書き、“大プロ”と呼ばれるほどの売れっ子脚本家になりました。
 こういった人と人の出会い、その後のジャパニーズ・ドリームは、戦後の混乱期、高度経済成長期前夜だったからこその、奇跡だったのかもしれません。
        
       ③に続く

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