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震災から10年、福島から海外へ避難して~Ⅱ震災当日

1. 巨大地震だ!

養豚場山木屋

 2011年3月11日午後2時46分、運命のあの瞬間、私は福島県川俣町山木屋地区の豚舎の中で働いていました。もうすぐ出産する母豚24頭を豚舎に入れて落ち着いたところで、同僚と餌やりとチェックをしていました。
 突然ドドド、グラグラッと大きな揺れを感じました。東日本に長年暮らしていて地震には慣れていましたが、この尋常ではない揺れは人生でも全く経験したことがないものでした。
 初めは恐怖で同僚と顔を見合わせじっとしていましたが、すぐに停電したのでとても大きな地震だと分かりました。天井近くに張り巡らされた餌のパイプラインが激しくガタガタ音を立ててひどい揺れが続くので、建物が倒れるかもという恐怖で表に飛び出ました。母豚達も恐怖を感じるのか、今まで聞いたことのないような不安そうな興奮した声でキイキイ鳴いていました。
 外に出たものの、豚舎のすぐ横に高さ10メートルもの4トン餌タンクが倒れそうに激しく揺れていたので、急いでタンクから離れた場所まで行きました。揺れは長く続き、真っ直ぐ立っていられなくてしゃがみ込みました。地面がこんなに揺れるものとは!これはただ事ではないと思いました。揺れの激しさだけではなく、時間の長さが異常に感じました。最初3分くらい続いたでしょうか。一瞬収まったかと思うとまた同じ位の強い揺れが2分くらい続きました。地球が壊れてしまうのではないかと思いました。
 養豚場は山に囲まれているのですが、目の前の山が細かく揺れているのがはっきり分かりました。崖からぱらぱら石が落ちてきました。わりと物事に動じない質の私も、怖くて何度も「怖い」「怖い」と言ってしまいました。揺れはなかなか収まらず、収まったと思ったらまた激しい揺れが続きました。
 

 揺れがひとまず収まった時、上から先輩のMさんがトラックに乗って、猛スピードで降りて行くのが見えました。豚舎の点検をしに行ったのかと思っていましたが、後で、自宅へ家族の無事を確認しに行っていたと知りました。自分の子供たちは学校や学童クラブに行っているから大丈夫だろう、とあまり心配していなかった私は自分の薄情さを反省。
 揺れがいったん収まった後、1分くらいしてまた激しい揺れが数分続きました。
 上司の指令で、停電で豚舎の中が真っ暗な中、懐中電灯で豚舎と豚の状態を点検しに行きました。床があちこち大きくひび割れ、餌ラインのパイプもどこかずれたのか、動かすとガキンガキンと大きな異音がするので、ストップせざるを得ません。点検中も、何回も激しい余震に襲われ、そのたびに怖くなって外に避難しました。
 地面もあちこちひび割れしていて、崖の近くの道には近づかないよう上司に指示されました。人生で初めての激しい揺れと被害を目の当たりにして興奮しながらも思考停止状態でした。
 停電が回復しないので真っ暗な中で作業もできず、私は子供のために早く帰らせてもらうことになりました。事務所に入ると、食器棚が倒れ食器が大量に割れていたり、窓ガラスが割れて冷たい風が吹き込んでいたりしました。事務の女性陣が片づけていましたが、私は今頃になり子供が心配になってきたので、悪いなとは思ったのですが手伝わず先に帰らせてもらいました。
 帰りの国道114号線は、ところどころアスファルトにひびが入り、山道なので崖に近いところではすでに転落防止のコーンが置いてありました。

2.子供たちは?

学校写真

 職場のある山木屋から道が塞がれることもなくスムーズに山道を降りてきて街中に着きました。そこで信号がついていないのを見て、初めて川俣の街中も停電していたことを知りました。
 子供たちは学童クラブにいるはずですが、迎えに行く途中、行列のできているコンビニを見て、先に食糧確保に行くことにしました。コンビニを先にするなんて親としてどうかしら?とも思ったのですが、4人家族が生きるためには食糧確保も大事だからと、とりあえず並ぶことにしました。おにぎりやパンはほとんど売り切れ、お菓子が残っていました。カップめんなどはまだありました。
 私は、すぐに食べられるサラダやお惣菜、水、春雨スープなどを買って並びました。暗い店内で、みんな知らない者同士、ほとんどしゃべらず、きちんと2列に並んでいました。その時、マンションなどでは水も出ない、ガスも止まった、という情報を聞き込みました。
 
 学童保育のわいわいクラブに着くと、上2人のお兄ちゃん達は興奮冷めやらぬ顔、末の娘は今にも泣きそうな顔で出てきました。なんと私が最後から2番目の親で、最後に残った女の子は、私のすぐ後にお父さんのお迎えが来たのですが、ずっと泣いていました。みんな仕事中だっただろうに、真っ先に迎えに行っていたのだと思うと、またまた反省と後悔しきりの私でした。今振り返ると、自分の危機意識の甘さと、あまりに大きな出来事にショック状態でちゃんと考えられなかったんだと思います。今の私なら職場のM先輩のように真っ先に飛び出して駆け付けていました。
 地震の時どうしていたか3人に聞きました。上の2人は地震の時は教室にいたので、まず机の下にもぐり、その後校庭に避難したそうです。しかし、下の娘は学校から学童クラブに歩いて行く途中で、あまりの揺れに友達と怖さで固まっているところを、近くの花屋さんの女性が出てきて「大丈夫だからね。」と励まして下さったそうです。隣のラーメン屋の看板は落ちていたそうです。ひとつ間違えば看板や塀が崩れ落ちて大怪我をしかねない状況だったことを知ってぞっとしました。変なところで心配性のわりに「うちの子だけは大丈夫。」と楽観的すぎる私は、もっと心配すべきだったとまた反省しきり。

 ガソリンが明日入れようと思っていたのでほとんどない状態で、「どうしよう。」と思ってガソリンスタンドに行ってみました。が、スタンドはもう真っ暗で、ロープが張っていて誰もいませんでした。後で聞いたら停電でガソリンをくみ上げるポンプが動かなかったそうです。あきらめて帰りましたが、その後、あんなガソリン不足になるなんて!金曜日はガソリンを入れるとポイントが2倍になる日だったので金曜まで待っていたのが仇になりました。それ以来、私はガソリンが半分になったら、必ず満タンに入れるようになりました。必ず、です。なにせガソリンが満タンあれば、福島から東京までは逃げられますので。
子どもを連れて帰宅する途中、スーパー・ファンズの駐車場で青空市のように品物を並べて売っているのを見て、また、買いに行きました。今度はガスが止まっていることを念頭において、カセットコンロのガスボンベと乾電池を狙いました。店員さんが、品物の散乱した店内から商品を取りに行っていたので、ガスボンベも取ってきてくれるようお願いしました。パンやカップめんが先に出てきましたが、後からガスボンベも持ってきてくれました。これでひと安心と思いました。
 レジが使えないので、店員さんが、記憶している値段を計算機で計算してくれました。その記憶力に感心!端数は切り捨てて安売りしてくれたのも、さすが地元に密着したスーパーだと思いました。

3. 家はどうなっていたか?

小綱木団地とかなえちゃんち

 私たちは町営の平屋住宅に住んでいました。帰り着くと家の外回りは崩れた様子はなく、ホッとしましたが、地震で家の中はどんなになっているだろうと不安でした。ガラスが割れていたら危ないから、その時は靴で中に入るように子供たちに指示して、おそるおそる家のドアを開けました。
 台所の食器棚の上に置いてあったクーラーボックスと、ほかのいくつかの物が少し落ちていたほかは、意外にも家の中は大丈夫でした。ガラスも割れていませんでした。金具で倒壊防止のチェーンをつけようと思ってまだやっていなかった本棚も、絶対に倒れていると思ったのに無事でした。同じ町内の友人の家では食器棚が倒れ、直しても余震のたびに倒れて、「うちの食器は全部割れないと気が済まないみたい。」と苦笑していたので、うちの本棚の置いてある向きと揺れの方向がちょうど良かったのかもしれません。
よく見ると、壁と柱のすき間が空いているところがいくつかありましたが、壁がひび割れたところもなく、長屋仕立ての平屋建ては揺れに強いんだなと思いました。同じ川俣町内でも屋根瓦が沢山落ちた家があったり、役場の庁舎は崩れて使えなくなったりしていたので、うちはかなり被害が少ない方でした。

 水は出たので、まず、鍋、やかん、ペットボトル、浴槽、洗濯機の中、とあらゆるところに水を溜めました。次に、4年前に念のため買っておいた防災リュックを出してきて、初めて中身を出してみました。さすが、すぐに役に立ちそうな懐中電灯とラジオがあったので、出しました。まさか使う時があると思わないで買ったのですが、買っていて良かったと思いました。
 3月はまだ日が短く、5時半で暗くなってきます。寒くなってきましたが、暖房器具が石油ファンヒーターとパネルヒーターという電気を使うものしかなく、停電の今は使えません。電気を使わない石油ストーブは臭いし部屋の空気が汚れるからと、嫌いで持っていなかったのですが、こういう時に必要になるとは全く思いもしませんでした。「福島で暖房がないなんて致命的!」と思いましたが、「一番寒い峠の2月は越えているしなんとかなる。というか、なんとかするしかない。」と自分に言い聞かせました。
 とにかく服を着込んで、体の中から温もろう、と思いました。カセットコンロでお湯を沸かしてみんなで私がさっきコンビニで買ってきた春雨スープを食べました。後から知ったのですが、ガスが止まっていたのは地震で緊急停止したためで、家の外にあるガスメーターの回復ボタンを押せばガスは出たそうです。でもその時は、コンビニのお客さんの言っていることを鵜呑みにして全く調べなかったのです。これも反省。人の言うことを信じて自分で確かめないのはダメ、というのは何にでもあてはまりますね。

 家の固定電話も携帯電話も通じないので、千葉の母が心配しているだろうなと思いつつ、連絡のとりようがありませんでした。テレビは停電のためもちろん点きません。乾電池で動くラジオをつけっぱなしにしていました。ラジオでは宮城の津波の被害を延々と報道していました。2,000人以上の遺体があるとか聞いてると落ち込みました。福島の原発の話はしていたのかも知れませんが、印象に残っていません。あまり情報がなかったのでしょう、またラジオでは津波や地震の映像が流せないのでひたすら津波の被害者のニュースばかりだった記憶があります。

 とにかく寒いし、暗くなってきて懐中電灯の明かりだけでは何もできないので、6時半頃からみんなで布団に入ることにしました。子供たちはそれぞれ小さい懐中電灯を持ち、おもちゃができ嬉しそう。強い余震のたびに、外に逃げるかどうか迷って体を起こして様子を見つつ、子供たちとおしゃべりしていたのですが、いつの間にか寝てしまいました。多分全員8時前には眠りに就いていたでしょう。

4.もと旦(もとだん)と原発

大熊町サイン

ぐっすり寝ていたところを、ドンドンドン、とドアを叩く音と男の人の声で目が覚めました。近所の消防団の見廻りかと思ったら、元夫でした(もと旦那なので、以後もと旦と言います)。夜10時すぎでした。電話が通じないので、車で1時間の郡山からかけつけてくれたのでした。
 「大丈夫か?」
「うん、もう寝てたとこ。」
「あ、それはすまんかったなぁ。ほなさいなら、おやすみ。」
私が寝ていたと聞いて、気を遣ってすぐに帰ろうとするもと旦を、
「あ、ちょっと待って。」と思わず呼び止めてしまいました。
「子どもたちはどうや?」
「大丈夫だよ。怖がっていたけど。」
 「ガソリンあるか?」ともと旦。
「それがないの。明日入れようと思ってたから。近くのスタンドに行ったけど、閉まってて入れられなかった。」
 「郡山からこっちにくる途中のスタンド、何か所か開いてたで。国道4号線沿いと、飯野町に入ってから。分かるか?」
「うーん、えーと?」
 「代わりに運転してガソリン入れてきたろか?」
「あ、うん、お願い。」
 「こういう時にはガソリンが真っ先になくなるからな。ほな行ってくるわ。どれ位ガソリン残ってるの?」
「もうエンプティのランプついてる。」
 「え?大丈夫かな?ま、とりあえず行ってみるわ。」
「お願いします。」
 そんな会話を交わしているうちに、次男が起きだしてきました。
「あ、お父さん?どうして?」
「電話が通じひんからな、みんな無事かなと思って来たんや。」
 「ぼくたちは大丈夫だよ。少し棚の上の物が落ちたぐらいで。お父さん、泊まっていくの?」「いや、今からお母さんの車のガソリン入れてくるからな。そしたら帰るから。もう寝なさい。」
 「わかった。明日来てくれるよね?」
「ああ、来るよ。おやすみなさい。」
 次の日は元々もと旦が子供たちに面会に来る月一回の土曜日でした。
 そういえばもと旦はこういう災害時に張り切る人やったな、と思いながら待っていると、15分もしないでもと旦が戻ってきました。残りのガソリンが少なすぎるので、スタンドまで行き着くか不安になって途中で戻ってきたのです。翌日もと旦が教えてくれたところによると、あの後郡山まで帰ったら、途中のガソリンスタンドはもう全部閉まっていたとのこと。やっぱり戻ってきてくれて正解だったみたいでした。

 また眠りに就きましたが、大きい余震が何度もあり、その度に外に出ようか出まいかと様子をうかがい、何度も目が覚め、また寝ました。
 3月11日は停電でテレビが見れず電話も通じず情報がほとんど入らなかったこと、寒さをしのぐことと余震から身を守ることの方に意識が行っていて、原発のことはまったく考えませんでした。と言うか、福島に住んでいて原発の近くを2回ほど通ったことはあるのですが、その時以外原発のことを人生で意識したことはなかったとも言えます。

 さて、ここからは福島原発の話を書いていきます。

5.【地震の揺れで原発はどうなったのでしょうか?】

福島第一原発入口

 今回の東北地方太平洋沖地震は、日本の観測史上最大のM9.0を記録し、最大で宮城県栗原市の震度7、広い範囲で東日本を中心に震度6強から6弱を観測するという超巨大地震でした。私の感覚通り、本震の揺れは東日本全体で約6分間続いたそうです。
 私のいた福島県川俣町では海に接していなかったので津波被害はなかったものの、震度6弱を記録し、働いていた養豚農場の豚舎でも床があちこちひび割れ、餌ラインのパイプがずれるなどの被害がありました。あの激しい揺れに遭っては、原発の内部の複雑怪奇に出ている多数の配管も、お互いぶつかりあったりずれたりして絶対に無傷ではなかったと確信しています。
現に、2011年12月28日放映のテレビ朝日「報道ステーションSP メルトダウン5日間の真実」では、地震でケーブルや配管が多数、あるものは4~5mの長さにわたって落ちていた、壁やコンクリートの塊が崩れ落ちていた、と言う原発作業員の証言がありました。そして、中央制御室のホワイトボードには、3月11日の午後17時50分に冷却装置を確認に行った運転員が1号機建屋入り口付近で大変な高濃度の放射線量が出て撤退したという記録があります。これは、メルトダウンが始まったとされる午後7時よりも1時間以上前です。海外の研究所で検出されたキセノン133の流れをさかのぼると、やはり午後5時50分に近づくことも明らかにされました。
 また、元原発設計技師のT氏も、3月11日の地震直後に1号機の格納容器の温度と圧力が瞬間的に急上昇していることが温度変化データで分かり、「圧力容器につながる配管の一部が破損し、格納容器に高温の蒸気が漏れたようだ」と分析しています。
 ですから、東京電力の報告では「地震」そのものでの原子炉等の損傷はなかったとし、放射能漏れは「想定外の津波」による全電源喪失によって原子炉を冷却できなかったことが原因だとしているのですが、いろんなデータからそれが嘘だと分かります。
 原子炉を設計したアメリカの技術者も、M7以上の地震に耐えられるように作っていないと証言し、しかも耐久年数を超えた老朽化した原発だったのですから、あの地震に耐えられたはずはないと思います。
地震で原発は壊れなかった、津波がメルトダウンの原因だという方便は、原発には耐震性がある、だから原発を再稼働できる、と言うための言い訳なのだと私は思います。

6.【3月11日夜の福島第一原発はどうなっていたか?】

 私が停電の中すやすやと寝ていたとき、原発はどうやら大変なことになっていたらしいのです。
 東京電力は、津波が襲来した3月11日午後3時37分頃から全電源が喪失して原子炉の冷却機能が働かなくなり、当初約300度だった1号機の炉心温度が午後6時過ぎから急上昇し始め(炉心損傷開始)、それに伴って、燃料最上部から約5メートル上にあった原子炉の水位も10メートル下がり、午後7時30分頃(ちょうど私たちが眠りに入った時)に全燃料が水面から露出し、同7時50分頃には炉心溶融(メルトダウン)が始まったと分析しています。
 11日午後9時には、炉心温度が燃料ペレット自体の溶け始める2800度に達し、12日午前6時50分には、全燃料がメルトダウンしたとしています。そして、格納容器を通り抜け下のコンクリートまで浸食した(メルトスルー)という分析を2011年12月になって発表しています。なんという速さでしょう。恐ろしい!の一言です。
 11日午後11時にタービン建屋1階北側二重扉前で1.2mSv/h、南側二重扉前で0.5mSv/hを計測、午後11時50分には原子炉格納容器内の圧力が600kPaを超えている事が報告されています。もうこの時には放射能は漏れ、爆発の危機寸前でした。

 3月11日の午後7時50分頃にメルトダウンが始まり、午後11時に放射能漏れが確認されていたのですが、では住民の避難はどうだったのでしょうか。福島県は午後9時10分に福島第一原発2号機から半径2キロ(大熊町と双葉町)の住民に避難を呼びかけ、同23分に枝野官房長官が福島第一原発から半径3キロ以内の住民に避難を指示し、3キロから10キロの住民に屋内退避の指示を出しました。
 メルトダウンの事は当時は確定の事実として分かっていなかったとは言え、この極めて危険な状況でたった3キロ以内の住民にしか避難指示を出されなかったのは驚きです。枝野長官や報道のトーンも「現在放射能は炉外に漏れていません。これは念のための指示です。」というもので、いかに危機意識が甘かったか、あるいは国民のパニックを抑えるために印象操作をしていたのか、ということを考えざるを得ません。




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