見出し画像

震災から10年、福島から海外へ避難して~Ⅷ 和歌山にて 親友も合流

5. 親友も来た!

画像1

 私は福島で子ども劇場に入っていて、劇場を通じた友人がたくさんいました。その中でも一番交友が深く、次男の幼稚園の時からの親友のお母さんでもある友人のAさんから、3月17日の夕方、「避難しようと思うんだけど、どこかないかな?」とメールが来ました。私は、山形や奈良県の自然農の仲間が住むところを提供してくれるという、やまなみ農場の佐藤幸子さんから聞いた情報を教えました。
 翌日の夕方、Aさんに電話をすると、「育ちゃんとこは無理かなあ?」と聞かれました。私は前日のメールではそんなことは聞かれなかったので驚きつつ、「母の機嫌が悪くなっているのでうちに来てもらうのは無理だと思う。」と答え、町内のアパートや公営住宅を探すことを約束しました。
 翌19日、土曜日だったのですが、紀美野町役場に行ってみました。Aさんがガソリンがないというので、移動手段を調べるのにパソコンを使えないかな、と思ったのです。福島の公民館では町民は無料でパソコンを使えたからです。
 紀美野町役場では町民が自由に使えるパソコンはない、ということでしたが、役場の住民課の方は親切に、総務課でパソコンを使えるか聞いて下さり、総務課に案内してくれました。
 土曜日の1時半過ぎだったので、休日出勤だったのでしょう、4人ほどの男の人達が遅いお昼ご飯を食べていました。私が行くと、食べている途中だったのに中断して、パソコンを用意して下さったり、住宅支援情報を調べたりして下さいました。
 私はパソコンで福島市内のガソリンを入手できるスタンドを調べてみると、入手できるスタンドは毎日変わるらしく、古い情報では意味がないことが分かりました。東北新幹線は那須塩原までしか動いていません。福島空港からの便はキャンセル待ちだけだし、高速バスも4月まで予約が一杯なので、福島第一原発が危機的状況にある今、すぐに避難することはなかなか難しいと思われました。
 総務課の方達は、和歌山県や海南市の被災者向けの住宅支援情報をパソコンや電話で調べてくれました。私やAさんが住んでいた福島県川俣町は、浪江町や飯館村に隣接し、4月には一部が計画的避難区域になりましたが、3月当時は原発から30㎞を超えるというので避難区域から外れていました。
 すると、県や市の支援は罹災証明のある人だけなので、放射能を理由とする自主避難者は受けられない、というのです。お役所なので証明書がなければどうしても無理、というのです。
 しかし、総務課の方は、「うちの町で、なんとかならんやろか。」と、町営住宅を扱う企画管財課に相談してくれました。休日だったので担当者は出勤していなかったのですが、わざわざ役場に出てきて下さって話を聞いて下さいました。
 本来ならば町も県の基準に従うということで、罹災証明のない人には住宅を支援することはできないのですが、町長さんとも相談して頂いて、毛原という紀美野町でも山奥の方にある町営住宅に入れていただくことができるようになりました。もともと2戸空いており、被災者支援のために使う予定だったこと、過疎地なので空いているといっても入居希望者が殺到することにはならないだろう、ということで、特別に許可していただいたのです。町長さんを始め、役場の方々のあたたかい配慮に心から感謝しています。
 総務課の方は、町営住宅のほかに、民間でも被災者支援で住宅を提供してくれる所も調べてくれました。電話をかけさせて下さったので聞いてみると、私の家の近くにも何軒かアパートがあるということでした。
 どこに住むか決めるのはAさん達なので、選択肢はいくつかあった方がいいと思い、とりあえず彼女が来てから決めてもらうことにしました。

 翌3月20日、なんとかガソリンを入手したAさん一家は、那須塩原駅まで車で行き、駅前の無料駐車場に車を置いて、新幹線と在来線を乗り継ぎ和歌山駅までやって来ました。
 夜6時半ごろ和歌山駅に着いたというメールが来て私は車で迎えに行ったのですが、初めての道でルート取りを間違え、夜で暗いこともあって迷ってしまい、2時間近くも待たせてしまいました。
 再会したAさん一家は、和歌山の空気の暖かさにまず驚き、次にガソリンスタンドに行列がないことに驚いていました。私も和歌山で初めてスーパーに行ったとき、煌々と明るい店内に商品があふれていて、人々がのんびりと買い物をしている姿に違和感を持った一人なので、その気持ちは分かりました。
 夜遅いし、住む所が決まるまではとにかくうちに泊まってもらうことを母に頼み込み、家に来てもらいました。
 Aさん一家が滞在した4、5日間は総勢8人のにぎやかな生活で、食事作りもどれだけの量を作ればいいの?と戸惑いながらも、私には楽しい生活でした。しかし、高齢で余裕のない母にとってはそうではなく、「ここは私の家よ!あんた達だけでも大変なのに、他人を受け入れる余裕まではないわ!彼女はあなたの友達かも知らんが、私の友達ではないわ!」と何度も言われ、Aさん達にも不愉快そうな表情を見せるようになっていました。『はだしのゲン』で読んだ、戦後に家を焼け出された人が親戚の家で冷たく扱われたのと同じやなあと思いました。私にとっては「困った時はお互いさま」だったのですが、余裕がない母にとってはそうではなかったのでしょう。母にとっても気の毒だとは思いましたが、我慢してもらうほかありませんでした。
 Aさん達は町営住宅と民間のアパートを見学して、町営住宅は1年間家賃と水道代が無料という町からの支援を受けられること、アパートは、仲介手数料や礼金などを値引きして下さるものの家賃がかかるということで、町営住宅に入ることに決めました。
 同じ町内と言っても、私の家から車で30分も離れたところで、しかも彼らは車を持ってきていないので、移動手段がありません。また、Aさんもご主人のMさんも、根っからの福島県人で和歌山に足を踏み入れるのは初めてなので、知り合いも私以外にはいません。心配でしたが、近所の人は「奥ほど人情が厚いから大丈夫だよ。」と言いました。その通りでした。
 彼女達が行ったその日から、毎日近所の人が訪ねてきてくれて、野菜や米、お菓子や新聞、雑誌などを差し入れてくれたそうです。一年経っても彼女はあまり野菜を買ったことがないと言っていました。特に、違う地区の方ですが、民生委員の方が良くして下さり、夏休みに息子さんを預かってくれたり、毎週末のように自宅にお呼ばれしたりと、交流が続きました。
 毛原の方達には、地元の行事に誘ってくれたり、仕事を紹介してくれたり、数えればきりがないほどあたたかい支援をいただいているそうで、毛原に行って本当に良かったと思いました。ご主人は仕事のため一旦福島に戻りましたが、Aさんと小学5年生の息子さんも地元の方に助けられてすっかり毛原になじみました。1年過ぎてご主人は福島から完全に合流しました。
 彼女もまた、地元の三味線クラブの先生にと乞われ、得意の三味線の腕を活かして地元に恩返しをしています。

 ただ、私達がマレーシアに避難した後、Aさん一家は福島に帰ってしまうのですが... その話はまた今度。


6.紀美野町に感謝!

 ここ、和歌山県紀美野町に避難してきてありがたかったのは、町の支援が受けられたことです。母の実家で、祖父母がずっとここで住んでいたという地縁も大きかったかもしれませんが、何よりも、町長さんをはじめ、役場の方々のあたたかい気持ちで今までずっと助けていただいています。
 川俣町は山木屋地区が避難区域になり、私の住んでいた小綱木地区は山木屋に隣接していましたが、行政的には全く援助を受けられない「自主避難者」です。しかし、町の一部が計画的避難区域になったということで、「町長が特に必要と認める場合」としていただき、お役所的に切り捨てず、支援していただきました。そのふところの深さ、町長のご英断に感激しています。
 総務課と保健福祉課の方が4月に家に聞き取り調査で来られたとき、「何が今一番困っていますか?」と聞かれ、「仕事がないのが困っています。」と答えました。
 すると、その後、電話で、「今役場で臨時職員を募集しているのが広報に載っていますがご存知ですか?このお仕事はどうですか?」と教えていただきました。まだ広報はもらっていなかったので、早速持ってきていただいて読みました。すると、募集期間がちょうど今日までとのこと。急いで履歴書を出しに行き、その後面接試験を受け、募集要員2人の中に入ることができました。
 2012年3月末までのアルバイトでしたが、職場では分からないことがあるとすぐ教えてくれる親切な方たちが多く、一緒に受かった同僚のNさんとも仲良くなり、楽しく仕事をしました。おかげで家族4人が食べていくことができるのですから、本当に助かりました。期限が終わった4月からはヘルパーの資格を活かして社会福祉協議会でデイサービスの仕事をマレーシアに行くまでさせてもらいました。
 また、水道料金を1年間免除して下さったり、見舞金や町指定のゴミ袋を下さったり、物資援助や福島県からのお知らせの情報があるとすぐ教えて下さったり、自主避難者にすぎない私にとっては至れり尽くせりの環境です。商工会からは「きみの夏祭り」にも招待していただき、子どもと一緒に盆踊りや花火を楽しみました。
 寺本町長さんをはじめ、紀美野町の方々には本当に感謝しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?