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震災から10年、福島から海外へ避難して〜Ⅸ 福島に戻らなきゃ!

Ⅸ 福島に戻らなきゃ!

1.明け渡しの通告

 福島では町営住宅に住んでいました。避難して2週間後の3月下旬、和歌山に避難したことを町役場の担当者に伝えると、交通事情が悪いのですぐには戻れないだろうが、何年も荷物を置きっぱなしにすることはできない、と言われました。
 私自身も、春休みが終わって新学期が始まれば、子どもの学用品や服、家具などがないと困ると思い、できるだけ早く取りに戻りたいと思いました。ただ、また、一人で車を運転して福島まで戻らなければならないこと、一人で引っ越し作業をしなければいけないこと、まだ原発が爆発しかねない状況が続いていることがネックでした。
 とりあえず、引っ越し業者に片っ端から電話してみました。やはり、福島県での引っ越しは当分受け付けていないという業者ばかりでした。
 その中でも、N社だけは引っ越しを請け負います、と言うのです。しかも、今すぐでも大丈夫、と言ってくれたのです。その話を聞いたのが4月2日の土曜日でした。チャンスだと思いました。和歌山の小学校の始業式が4月8日、引っ越しの見積もりができるのが4月4日の月曜日、なんとか始業式の前に引っ越しを済ませられないかと思いました。
 問題は子どもたちです。母は和歌山の家にいましたが、一人で何日間も子どもたちの面倒をみることはできません。そもそも今まで一度も一泊以上母に子どもを預けたことはありませんでしたし、母自身も常々、「子どもをみるのは絶対に無理よ。子どもは親がいないと。」と言う人だったので、どうしようと思いました。長男は「大丈夫。お留守番できるよ。ご飯も作れるよ。」と言ってくれたのですが、1日ならまだしも、何日間もでは心配でした。
 そこで、福島から避難してきて町内に移住した友人のAさんに頼んでみました。Aさんのところは一人っ子なので、一気に4人も子どもをみるのはどうだろう、と心配だったのですが、快諾してくれました。ついでに、ご主人のMさんが福島に車を取りに行きたいので、行きはMさんを乗せて行ってくれないか、と頼まれました。お互い渡りに舟でした。
 急いで必要な物のリストアップにかかり、4日分の食料の買い出しにかかりました。

 まだ引っ越しの見積もりを受け取っていない4月4日の朝7時40分、見切り発車で下佐々の家を出発しました。まずは子どもたちと布団、着替え、食糧などを乗せ、Aさんに預けるため毛原の町営住宅に行きました。2階建ての集合住宅なので、一軒家にしか暮らしたことがない我が子たちの出す騒音が心配でしたが、朝早いので隣近所の方へのご挨拶はAさんに任せ、子どもたちには厳重に注意して、出発しました。
 海南東インターから高速にのり、京都までは順調に行きました。ところが、分岐点で間違えたのでしょう、いつの間にか高速を降りて一般道に出てしまいました。どうやら3月に開通したばかりの道路に入ってしまったらしいのです。関西道路地図という大雑把な地図しか持っていないし、現在地がどこかも分からないので、困ってしまいました。
 でも、今までの経験からコンビニに行けば大丈夫と信じていたので、とりあえずコンビニを探して大きな道を進みました。2㎞位走ったところでようやくコンビニを見つけ、店員さんに道を聞くことができました。コンビニに置いてある地図も立ち読みして道を確かめました。
 1時間近くロスしましたが、なんとか名神高速に戻ることができました。
 東名から首都高に行くと混むし、ややこしいので、日本海回りで行くことにしました。遠回りで時間はかかりましたが、スムーズに行くことができました。Mさんと交代で運転できたので、疲れずにすんで助かりました。
 昼食をとるのにサービスエリアに停まった時、引っ越しのN社に電話をかけました。今福島に向かっていることを言ったら足元を見られてしまうと思ったのですが、ついほのめかしてしまいました。それでも、相場よりかなり安い金額を言ってくれたし、長々交渉する時間がなかったので、それで頼むことにしました。
 大金を持ち歩くのは怖かったのですが、翌日の朝9時半に引っ越しにかかってくれるということだったので、サービスエリアでキャッシュコーナーを探して、2回に分けてお金を下ろしました。
 昼食はAさんが作ってくれたお弁当で、美味しくありがたく戴きました。野菜たっぷり、愛情のこもったお弁当でした。
 長い休憩をとったわけではありませんが、やはり日本海回りは遠い道のりでした。新潟県に入った時には真っ暗になっていました。
 調子よく走り、懐メロの話で盛り上がっていると、エンプティランプがついてしまいました。大変です!運の悪いことに、さっき、給油のできるサービスエリアを通過したばかりでした。Mさんとパニックになりましたが、Mさんが、「とにかく次のパーキングに入って店員さんに聞いてみよう。」と言うのでそうすることにしました。
 あわてて店員さんに尋ねると、同じようなお客さんがほかにもいるのでしょう、店のカウンターには最寄りのガソリンスタンドへの距離・行き方を書いた紙が貼ってありました。一番近い給油スタンドは40㎞以上先なのでとても間に合いません。次のインターを降りてすぐのガソリンスタンドが一番近いことが分かりました。
 低燃費でスタンドまでたどり着けるようにと、遅い、一定の速度で走りました。「後ろの車、ごめんなさーい。」と言いながらなんとかインターを降りると、すぐガソリンスタンドが見えました。ところが近づいてみると、電気は点いていますが、店員さんが閉店のロープを張っている真っ最中でした。午後7時半が閉店の時間だったらしいのです。
 店員さんに「すいません、待って下さい!」と叫びながら、なんとか入れてもらいました。
 時間をロスしてしまったので、晩御飯もとらずに走り続けました。
 夜9時半、ようやく福島市内のAさんの実家に着きました。ここに車が置いてあるということだったので、Mさんを降ろし、私は川俣の家に向かいました。


2.  ひさしぶりの我が家!

 2011年4月4日午後10時20分、14時間の旅を終え、なつかしの我が家に到着しました。3週間半ぶりです。閉めっぱなしだったとはいえ、もう放射能に汚染されているだろうと思うと気味が悪いのですが、見た目は何にも変わりません。ついこの間まで生活していた我が家です。昨日まで居たような、そしてこれからもずっと変わらずここで生活できるような気がしました。
 でも、もう二度と帰って来られないのです。馴染みのある部屋で、一人、何とも言えない気持ちでしばらく呆然としていました。
 郵便受けに入っていたチラシを見ると、長崎大学の高村昇教授の講演会が3月末に川俣中央公民館で行われるという案内が入っていました。原爆の落ちた長崎の大学教授なので放射能の危険を教えてくれるのかな、でも町が呼ぶのだからきっと「大丈夫です。」というのを強調したのではないかな、と懸念しました。案の定、長崎大学の山下俊一教授や高村昇教授らは福島県内を回り、「年間100ミリシーベルトまで安全です。」「マスクをしないでいつもと同じ生活をして大丈夫。」「ニコニコ笑っている人には放射能は来ません。」と言って親たちを安心させたそうです。
 翌4月5日の朝、引っ越しの準備をしていると、血相を変えた次男の親友のJ君が飛び込んできました。
「かっつ(次男の愛称)?!かっつ?!K君のお母さん、Kくんは?」J君が悲痛な声で聞きました。
「ごめんね、Kは来ていないの。私だけお引っ越しで来たの。」
 J君の蒼白ながっかりした顔。本当に申し訳なく、涙が出てきます。本当にごめんね。心の中で詫びるしかありませんでした。
 引っ越し業者が到着しました。運転手も入れて、なんと7人が来てくれました。子どものランドセルや学用品だけは、引っ越しの荷物に入れず自分の車に載せようと玄関に置いていると、邪魔だったのか外に出されて道路の上に放置されてしまいました。子どもの物には特に放射能を付けたくないのに、と内心腹が立ちましたが、表だって文句は言えませんでした。引っ越し業者はマスクも付けず、家じゅうの窓やドアを開けっ放しにして、放射能のことは全く気にしていないようでした。午前中に家中の荷物を梱包してしまうために、大勢でとにかく早く作業を終わらせることが先決だったようでした。
 大勢で作業したので、昼休みを1時間とっても2時半には積み込みまで終わり、引っ越しが完了してしまいました。あっけないほどでした。終わってから業者さんに、「今は避難の人とかで忙しいでしょう。」と聞くと、「いえいえ、むしろ転勤のお客さんが延期や中止になってしまって暇なんですよ。」と答えます。道理で業界最大手のN社が、4月のハイシーズンに格安で即座に引っ越しを引き受けてくれたわけです。私にとってはラッキーでした。やはり私には幸運の星がついている、と自画自賛(笑)。今から考えると、4月の初めに引っ越しまでして避難してしまうという思い切りのいい人は他にはいなかったのでしょう。
 梱包に1日、搬出に1日かかると思っていたので、思ったより早く引っ越しが終わってしまい、布団もなくどうしようと思いました。車で寝るほかないな、と思っていると、隣家のK君のママが「うちに泊まりなよ。」と声をかけてくれました。Kくんとうちの長男は仲良しでよく遊ばせてもらっていたのですが、私がお邪魔するのは初めてでした。でもK君ママは、とても気さくに気を遣わせないで誘って下さるので、私もお言葉に甘えてお風呂とお布団をよばれることにしました。

3.  友人らとの再会


 川俣の友人に引っ越しで戻ってきていることをメールすると、お別れ会をするから是非今夜会いたい、と言われました。急なことでしたが、3人の友人が来てくれて、お餞別にミニバラを贈ってくれました。同級生の父兄が営んでいる居酒屋で痛飲しました。
 一人の友人は、3月中はずっと夫の親戚のいる富山県に家族全員で避難していたそうですが、彼女自身とても腕のいいヘルパーで、職場から絶大な信頼を置かれている人だったので、「無理にとは言わないが、ぜひ戻ってきてほしい。」と職場から乞われ、また、富山に移住する勇気もなく、戻ってきてしまったと言います。富山ではお風呂屋さんが無料で入らせてくれたり、親戚が御馳走を食べさせてくれたり、ヘルパーの腕を活かして富山で働くよう誘われたりしたそうで、「他人にこんなに親切にしてもらったことないよ。」と言っていました。でも、新学期を前に、親たちが「川俣でしか暮らせない。」と言うし、子どもたちも転校したくないと言うので戻ってきてしまったと言います。
 もう一人の友人は、ずっと家の中に閉じこもったままだと言っていました。3人兄妹が家の中にいると、兄妹げんかが多くなって大変、とぼやいていました。
 私は自分だけ避難してしまうことが友人たちに申し訳なく、気がひける思いでしたが、友人たちは「行けるところがある人は行った方が絶対にいいんだって。申しわけながることないよ。」と言ってくれました。「自分らだって、避難できるとこがあったら避難したいもん。」とも。皆子どもを持つ親は同じ気持ちなのに、いまだに残っている友人たちのことを想うと胸をかきむしりたい気持ちになりました。

 翌日は川俣町では小学校の始業式があるということで、K君を見送った後、のんびりこたつでお昼寝をさせてもらいました。K君ママには美味しいご飯を始め、本当に温かいもてなしを受けて、感謝の気持ちで一杯です。こんなに素敵な人だったならもっと早く深く付き合っていれば良かったと後悔しました。
 K君ママは、飲み水とご飯を炊く水はすべてペットボトルの水を使い、学校にもペットボトルのお茶を持たせていました。洗濯は全て室内干し、布団も外で干していないと言っていました。「でもさあ、布団を外に干している人がいるんだよ。信じられないと思わない?その布団の上に寝て、放射能を吸い込むんだよ。でも、目に見えないし、匂いもないからね。」と言うのです。
 テレビでは原発からの風向きの予報が、ラジオでは今日の各地区の放射線量が報道され、そのことの異常さにため息が出るばかりでした。
 K君ママに「避難しないの?」と聞いたら、彼女は「仕事が絶対抜けられないもん。春休み中は子どもだけ姉の所に預けたけど、うちの子が絶対転校したくないって言うし。」と答えました。「もう福島からは絶対出られないと思うよ。うちら福島から来たって言うだけで嫌がられると思うもん。」と言うのです。もう差別のことを予想しているのでした。
 K君の家を出た後、会える限りの川俣での知人、友人、学校や幼稚園の先生方に挨拶して回りました。川俣の街なかでは、外を歩いている人はほとんどおらず、歩いている人はみんなマスクを着けていました。子どもは一人も見かけませんでした。
 読み聞かせの会の数人もお餞別を持って駆けつけて下さいました。子育てサポートの方も。どの人も、「仕方ないよね。子どものためには行った方がいいわよ。」と優しく言って下さいました。本当にお世話になった方達ばかりなのに、何も恩返しできず、心苦しく思っています。特にお世話になった子育てサポーターのAさんには、移住することを突然告げることになってしまい、申し訳なくてたまりませんでした。
 最後に福島市の渡利で、大事な友人Eさんに会いました。Eさんは叔母さんのお葬式が終わったばかりの忙しい中、駆けつけてくれたのです。彼女たちも原発の爆発で県外の親戚の家に避難していたのですが、地元に密着した仕事をしているので、「住民がいる限りは逃げられない。」と戻ってきていたのです。叔母さんは福島に戻ってすぐ亡くなってしまったそうで、心労か放射能の影響だろうかと言っていました。
 今でこそ福島市渡利地区は高線量のホットスポットとしてよく知られていますが、当時は飯館村のことばかり報道されており、福島市は60㎞も離れているから安全、という雰囲気だったのです。計測器を持っている人も少なかったのです。
 でもEさんは計測器を手に入れ、新しいおもちゃを手に入れた子どもみたいにあちこち測りまくっていると笑っていました。彼女は高圧洗浄機で家の壁を洗い、毎日マスクをして、外で着た服を玄関で脱いで洗濯し、拭き掃除をしていると言います。「毎日のことだから、本当に疲れてくるんだよね。」と言います。私だったら耐えられないと思いました。彼女は住民とご主人のために覚悟を決めてここに住んでいて、頭が下がる思いです。
 彼女の「住民がいる限りは逃げられません。」というメールを読んで、私も帰らなくてはいけないかなと思ったのですが、私の仕事は自分の子どもを安全な場所で育てることだと思い、帰らないことに決めました。彼女の決心は本当に崇高なものだと思います。

4. 帰宅 

 4月6日の夕方5時すぎ、福島市を後にし、和歌山に向かいました。3月11日以来ラジオのニュース中毒になっていたので、ずっとラジオを聴きながら、また日本海まわりで帰りました。今度は一人で運転するので無理をせず、こまめに休憩や仮眠を取りながら行きました。
翌4月7日のお昼頃、大阪に入り、1時頃、海南インターを降りました。思ったよりずっと早く着くことができました。
 しかし、家に帰るまえに、放射能にまみれた服を処分して新しい服を買いたかったので、コンビニで洋服屋さんの場所を聞き、買いに行きました。
 家に帰り、シャワーを浴び、靴と服を処分して新しい服を着て子どもたちを迎えに行きました。約9000㎞、21時間の旅が終わりました。
 やはり子どもたちは友人宅でうるさくして、Aさんに叱られたそうです。でも、3人とも合宿みたいで楽しかったらしく、よく面倒をみてくれたAさんに感謝、感謝でした。
 ご主人のMさんは高速を使わず帰っているので、今はまだ新潟県を走っているとのことでした。夕飯を御馳走になり、お土産のチーズケーキをみんなで食べて帰りました。

 引越しが無事終わったことにホッとしたと同時に、放射能で汚染された物を持ってきてしまったことに不安と罪悪感を感じ、複雑な心境でした。表面を拭ける物は拭き、洗える物は洗いましたが… 後に線量計を買ってフリース素材のジャケットの表面を測ったら何十回と洗った後なのに高い数値が出ていました。子供服は殆ど処分して和歌山で頂いた服を着させていたのでよかったのですが... 短期間で引き揚げなくてはいけず、物の処分する暇もなかったので仕方なかったのですが、後悔しています。


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