映画「君たちはどう生きるか」観てきたのでざっくり感想
事前の情報公開無し、宣伝も無しでいきなり公開されたことで話題になったスタジオジブリの新作映画「君たちはどう生きるか」を観てきました。
この記事に関して言えば内容に触れる予定がないので、ネタバレのようなことを書くつもりはありません。
が、基本的に今作を未視聴の方で、かつ観に行く可能性や予定がある場合はあまりこういった感想などは先に読まない方が良いと思います。
多分ですが、まっさらな状態で観に行かれた方がいいタイプの作品です。
それはそれとして、とりあえず作品として公開されたからにはネットで話題に上げることが観客として示せる敬意かなと思ったので、心のままにnoteを書いておきます。
■映画情報
【公開】2023年
【監督】宮﨑駿
【制作】スタジオジブリ
【上映時間】124分
■ざっくり感想
いつもなら先にざっくりあらすじを書くところですが、ひとまず、今作に関しては飛ばします。
具体的な内容に関しても色々考えていることがありますが、今のところは我慢します。もう少し考えたいので。
・高熱のときに見る夢
で、感想をざっくりまとめると、風邪を引いたときに見る夢みたいな映画でした。
発熱しているときって、断片的だけど続き物だって分かる夢を見たりしませんか。朦朧としていて、どこからどこまでが夢で、どこからどこまでが実際に起きたことだったのか分からなくなったりとか。あ、あれ夢だったんだ、みたいな。
2時間ずっとそんな感覚でいました。
そりゃこれは賛否あるでしょうねって感じです。
ハッキリ好き嫌いと得手不得手が分かれる映画だと思います。
提示された情報や伏線に対して、ある程度の説明や決着が示されないと気持ち悪い人には絶対向かないです。
あと起承転結が整然と進まないとダメな人も無理だと思います。
高熱出してるときにそんなロジカルな夢見ないですよね。でもどんなに破綻していてもさっきの夢の続きだってことはハッキリ分かる。そんな感じで突き進みます。
・でもジブリってさ
そういう作品って往々にして説明不足だ、意味がわからない、風呂敷を広げただけという感想が飛び交いますけど、そもそもジブリ作品ってその傾向は結構強かったと思うんですよね。
ジブリの話題になると「『千と千尋の神隠し』って結局なんなの?」とか「『ハウルの動く城』ってよく分からなかったんだよね」とか言っている人に結構出会います。
そういう人たちにはそもそもファンタジー適正が無いというのもありそうですが、それにしてもこれまでのジブリってストーリーが明快な作品ばかりじゃないと思うんですよね。
ジブリ作品に限らず、基本的に創作に対して隅から隅まで意味を問うってナンセンスだと思うんです。
全部に意味や理由を求めるせいで、途中で影が無くなってるから『となりのトトロ』のメイちゃんは実は死亡している!みたいな都市伝説が生まれちゃうわけで。
普通にストーリー関係なく絵的にイマイチだな、みたいな理由で影つけないとかありますよ。アニメなんだから写実が絶対ではないんです。
それこそあまりに苛烈すぎて、外野からすると狂気すら感じるエヴァンゲリオン関連の考察合戦とかに近いものを感じます。
たぶん制作側はそんなこと考えて無いと思うよ……みたいな。
・幼さゆえの不快な読書体験
この感想を打ちながら、ふと高校生のときに安部公房の『壁—S・カルマ氏の犯罪』を読んだときのことを思い出しました。
当時、私は割と読書が好きな高校生で、与えられた課題図書を全て楽しむことができていました。芥川でも、谷崎でも、三島でも川端でもどんとこーい! だった中、ただ唯一、ハッキリと不快感を抱いたのが『壁』でした。
シンプルに意味が分からなかったからです。
それまで与えられてきた作家たちはなんて美しく明瞭で分かりやすい文章だったんだと衝撃を受けました。こんな訳分からない悪い夢みたいな小説が芥川賞だと!?と思いました。
そう、悪い夢みたいだ、と思ったんです。そのときも。
理解できないものに出会ったときって、不快というか不安というか、とにかく不安定な気持ちになりますよね。
なんとなく、「君たちはどう生きるか」を酷評している人たちって、そういう気分なんじゃないかなぁと思ったりしています。
ハッキリした正解が得られないから怖いというか、不安というか、スッキリしないというか。
だから嫌だな、座りが悪いなって感じてるんじゃないですか。
まぁ話を戻すと、当時はとにかくその不快感が許せなかった。初めて読書でそんな気持ちにさせられたもんだから、長らく私にとって最悪な経験として引きずっていました。
ただその後、先生から示してもらっていた道から外れて様々な読書をしていくうちに、理解できない読書を許容できるようになっていきました。
それこそイヤミス(読後、イヤな気持ちになるミステリー)なんていうジャンルがあるくらい、物語は様々です。
設定が甘い小説もあるし、文章が拙くて本当に編集がついているのか?という小説もある。
でも読書経験を積むにつれて、それらに対してどう感じるかはともかくとして、読み終わるまでは一旦「そういうもの」として受け取れるようになりました。
そんな安部公房ですが、かつてテレビのインタビューで「小説というのはそれ以前の意味に到達する前のある実態を提供する、そこで読者はそれを体験するというもんじゃないかと思う」と答えているそうです。
要するに「考えるな、感じろ」ってことですよね。
少なくとも安部公房の作品を読むときはその姿勢でいなくてはいけなかった。それを知らずに真っ正面から立ち向かってしまったから、文章をきちんと理解して読み取ることこそ正しい読書だと思っていた幼い私は、その大きな壁の前で膝をついた訳です。
・で、宮﨑駿に戻る
例えば『ハウルの動く城』は宮崎作品の中でもかなり賛否があったらしく、こんなインタビューが残っています。
ここから以下一部引用します。
まぁこれも結局は「考えるな、感じろ」ってことなんじゃないですかね。
別に理屈が通ってなくたって、辻褄が合わなくたって、それでも成立する創作は確かに存在します。
全部に言語化された理由なんかなくて、作り手が感情に任せて作った作品なんてそこら中に転がっています。
もちろん根気強く考えて考えて考えることって素晴らしいことだし、1つの作品を味がしなくなるまで噛むのも相当な愛ゆえだと思います。
自分なりに解釈するのも素晴らしい。感想を言葉にするのも最高です。
でもそれを答え合わせしようとするのは違います。それはあくまで作品に対する呼応でしかなくて、答えにはなり得ないからです。
そして根本に立ち返ってみると、ただ心のままに、頭を使わずに作品に身を任せるっていうのは自然な鑑賞だと思うんです。
よく分からないけど良かったな、なんとなく嫌だったな、スカッとしたな。
感想なんて本来それで十分なはずで、そこから逸脱する強い感情を抱いたとき初めてその正体について模索して言語化すれば良いと思うんです。
なんで国語のテストで「作者の気持ちを答えなさい」って問題が出ると作者の気持ちなんて作者にしか分かんねーよ!ってキレる癖に、自発的な鑑賞では明確な答えを求めるんだい……。
■まとめ
結局色々言われてますけど、絶対9割くらいの人はよく分かんねぇなって思いながら映画館を出ていると思います。
それで良いはずです。そうじゃないなら、いくらなんでももっとエンタメ作品として興行的に成功させるために周りが動いたはずです。
これはこれまでみたいな大衆向けの映画作品じゃないんだと思います。たぶん。
ぜひエンドロールが終わったときにポカーンとして、よく分かんねぇけど「宮﨑駿」だったなって思いながら席を立って欲しいです。
で、気づくとなんかじわじわ味がしてくる。噛んでるつもりもないのに、なんかこわい。
でもそういうのも結構楽しかったですよ。
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