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三宅香帆「娘が母を殺すには?」

言い換えれば、娘が自分の人生を生きるには?ということになるのだと思います。
それくらい、母が意識的・無意識的に娘に追わせている規範はとてもとても重いものです。それを娘が認識しているかいないかは別として。

この本は、娘と母の小説、漫画、ドラマ、映画など、様々なフィクションを分析し、娘が母の規範に囚われずに生きていくための方法について模索しています。
母親は子どもが小さいころから、「こうしなさい」といったことを繰り返し言い聞かせます。もちろんそれは、安全のためや教育のためといった目的もありますが、その範疇なのか、その範疇を超えているのか、境界線は不明瞭です。
そしてその習慣がそのまま続き、大人になってからも、訊かれもしないのに自分の意見を押し付けるのは、冷静に考えるとおかしいと思います。とはいえ、昔から、親に反対されてできなかった、といったことはあったわけで、

第一章 母殺しの困難

三宅氏は、ギリシャ神話から「父殺し」はテーマになっていたが、「母殺し」について批評される機会はあまりなかったと指摘しています。
なぜかといえば、父は強さで支配するのに対し、母は愛情で子を支配するから。父より強くなれば父殺しが達成されるけれど、母に対しては、その規範から逃れるしか方法はないからです。
加えて、また今の社会においては、母は自分を生んだことで自分のキャリアをあきらめたという負い目があること、就職氷河期で非正規雇用が増え経済力が不十分、あるいは逆に子育てしながら正社員として働くことの難しさゆえに、大人になった娘が母と密着しがちだと言います。
このような理由で、母殺し=母の規範から逃れることが難しいと言います。

  • 漫画『イグアナの娘』萩尾望都

  • 漫画『砂時計』芦原妃名子

第二章 母殺しの実践

この章では対幻想による代替、虚構による代替、母を嫌悪するという3つの方法によって、母殺しの実践を試みたフィクションが紹介されています。

まずは、自分を愛してくれない母の代わりに、永遠のパートナーを探すフィクション2つが紹介されています。ですがこの結末は大きく違っていて、『日出処の天子』の方は、主人公が他者としてパートナーを愛そうとしているのではなく、自分の一部として愛そうとする、自他の境界ができていないことをパートナーに指摘され、孤独のうちに生きていくことになります。

  • 漫画『残酷な神が支配する』萩尾望都

  • 漫画『日出処の天子』山岸京子

続いて、虚構による代替で紹介されているのは、「母殺し」の必要のない「理想の母」を描いています。けれどこれも、「母はいつも正しく、自分のことを理解してくれる」という母への幻想を強化してしまうところが難しいと指摘しています。

  • 『イマジン』槇村さとる

  • 『なんて素敵にジャパネスク』氷室冴子

そして、「母殺し」という言葉の感覚に一番近いと思われるのが、この「母を嫌悪する」という方法です。『乳と卵』では、母をケアしてあげたい、という気持ちとセットとはいえ、母の愛情をを「気持ち悪い」と表現しています。そして、『爪と目』では、眠っている母親の目にマニキュアの破片を入れるという行為が行われますが、でもそれは、3歳の娘にから義母に対してだから表現できた話なのかもしれません。

  • 『乳と卵』川上美映子

  • 『爪と目』藤野可織

実はこの3つのフィクションが出た時期は、1970~1980年代、1990年代、2000年代に分かれていて、それぞれの世相を反映しているとも、著者は解説しています。

私が思い出したフィクションは、「塔の上のラプンツェル」です。ひどい母親からは逃げていい、でもそれは実は本当の母親ではなかった、という構図から、やはり毒親については言及できないのだろうか、と思ったものです。

第三章 「母殺し」の再生産

もう一つの母殺しの方法として、吉本ばななの『吹上奇譚』では、自分の母が間違っていたことを示すために、「正しい母」になろうとする女性が描かれています。
他方『銀の夜』では、自分も母の規範に苦しんだはずなのに、自分が「母」になったとき、娘へ規範を再生産してしまう様子を描いています。

  • 『吹上奇譚』『キッチン』吉本ばなな

  • 『銀の夜』角田光代

加えてこの章では、夫の問題や父親の問題にも触れています。母と娘の密着が強くなる理由として、夫婦のディスコミュニケーションがあり、本来夫にケアしてもらうべきなのに、娘にケアしてもらいがちと指摘します。そして、なぜ父親の子育ての物語はみんなシングルファーザーなのだろうか、という疑問も提示しています。

  • 『凪のお暇』コナリミナト

  • 『SPY×FAMILY』遠藤達哉

  • 『Mother』『大豆田とわ子と三人の元夫』坂元裕二

  • 『くるまの娘』宇佐見りん

三宅氏がこの章の最後の最後の節で「子どものいる夫婦の対等なコミュニケーションは描かれ得るか?」ということを掲げています。

初恋のような関係でもなく、母性に頼ることなく、大人の男女が夫婦として言葉を届け合える様子は描かれ得ないのだろうか。いま私たちが求めているのは、対等な夫婦のコミュニケーションが成立している家族の物語であるはずなのに。

本書

再度読み直してみないと、本当にここに掲げられている疑問の答えになっているかどうか自信はありませんが、私の記憶では、辻村深月「クローバーナイト」が該当するのではないかと思います。子育てしながらも、対等な夫婦のコミュニケーションが描かれていて、ぶっちゃけ羨ましすぎる、と思うと同時に、仕事が対等、というかむしろ、女性の方が社会的なステイタスが上でないと、このような状況にならないのだろうか、と考えてしまいました。

第四章 母と娘の脱構築

第一章から第三章までの母殺しの手法が、いずれも母殺しの困難性を浮き彫りにしたことを振り返った上で、まず、「母殺し」の達成条件について確認しています。
そして次のように考えます。
「母の規範を相対化し、自分の欲望を優先すること」

ここで紹介されている手法は、これまでとは少し違います。母と娘という二項対立から、第三者を登場させることで、脱構築しようという考え方です。

  • 『愛すべき娘たち』よしながふみ

  • 『私ときどきレッサーパンダ』ドミー・シー

  • 『娘について』キム・ヘンジ

  • 『最愛の子ども』松浦理英子

ここでのフィクションは、三宅氏の提示した「母殺しの達成条件」をいずれもある程度完遂しています。それがどんな風に行われたか、はここでは敢えてようやくしたくないな、と思います。

あとがきもとても印象的なので、一部引用します。

巷では「母を許そう」とか「母を手放そう」とか「母を受容しよう」とかいろいろ言われていますが、そんなことより、全「娘」にとって必要なのは、「母を殺す」ことなのでは?―――そんなことを伝えたくて書いたのが本書でした。
女性にとって「母」はどうしても絶対的な規範になりがちで、そこから抜け出すことは、良くも悪くも、難しい。
だからこそ自覚的に「母殺し」をしていきましょう。
―――この結論に関して、異論反論ご指導等ある方も多々いらっしゃると思いますが……ぜひそれらは、著者にお寄せいただけますと幸いです。たくさんの「娘」の話を、私は聞きたいのです。そしてたくさんの方に、母娘問題を知ってほしいのです。

本書

巻末に発行元のアドレスが掲載されていたので、私も「娘」として思うことを送ってみようかなと思いました。

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