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七月に、五月とわたしと(第二十五話)

【00:46】
 二日前ーーもう三日前かーー修平さんに告白した帰り道の途中ですべては始まったのだ、と【わたし】は言った。気がついたとき自分は〈そこ〉にすでに存在していたのだ、と。〈そこ〉とはあの廃屋からアパートのあいだに位置する、何の変哲もない裏路地のことだった。
「あらゆる音が、光が、直接脳の中に流れ込んでくるように感じられた。生々しいなんていうレベルじゃない。すべての感覚器官を、生まれて初めて使ったかのようだった。そして胸がふさがれるような不安な心持ちで、ひどくいたたまれなくなった。矛盾するようだけど、世界のすべてがよそよそしくて、わたしにそっぽを向いているみたいだった。遊園地で初めて迷子になった子どもは、きっとこんな気持ちで泣き出すのだと知った……」
 わたしは鉄柵を背に【わたし】と対峙していた。
 【わたし】の述懐に合わせたように雨は幾分か弱まっていて、大声を張り上げる必要がなくなっていた。だからと言って、立ち話をしたいような天気ではなかった。とりわけ、拳銃を突きつけられているような場合には。
 【わたし】は銃口を微塵もそらさずにしゃべり続けた。自分がしゃべっているのを聞くのは、奇妙な気分だった。端から見たわたしは、こんな一本調子の、モノローグみたいなしゃべり方をしているのか。すまなかった、栄子よ。気持ち悪いなら言ってくれてよかったのに。
「わたしはどうしてそこにいたのか、どうしても思い出せなかった。昨日までの記憶ならあった。母さんのことも、修平さんのことも、学校のこともみんな覚えていた。でも、いつその場所に来たのかが、どうしても分からない。戸惑っているうちに、〈奴ら〉がやって来た」
 お揃いのようなダークスーツを着た、双子みたいによく似た二人組の男たち。街中にいると周囲に溶け込んで、透明な、目に見えない存在になってしまうそんな二人組だ。
「男たちはわたしにいくつか質問を投げかけ、そして言った。君が〈反在者〉なんだね、と」
 男たちは【わたし】を捕らえるために、定められた行動を取った。すなわち即効性の麻酔薬ーー短く髪の毛よりも細い針で注入されるーーによって意識を失わせ、回収しようとした。しかし、二つの誤算があった。ひとつは男たちが完全に油断しきっていたこと。もうひとつは、そのときすでに【わたし】の能力が覚醒していたことだ。

〈リーディング能力〉

「まるで平手打ちを食らったみたいだった。偶然触れた男の身体から、圧縮された無数の情報が、いちどきに、並列して、なだれ込んできた」
 コンマ数秒以下のうちに【わたし】は、男たちからあらゆる情報をもぎ取っていた。〈反在者〉のこと、男たちの組織のこと、もう一人のわたしのこと。
 【わたし】はとっさに反撃した。男の手を捻り、男自身に麻酔針を突き立てた。拳銃を奪い、思わぬ抵抗にうろたえているもう一人に突きつけた。あとは簡単だった。男に自分自身の麻酔針を打たせて眠らせると、男たちから様々なものを奪った。拳銃、予備の弾薬、麻酔針、スマホ、財布……。
「わたしはその場から逃げ出した。でもわたしに行く場所なんてなかった。家にはあなたがーー本物のわたしがいた。修平さんにも、もう会えない。わたしは、ひとりで泣いた」
 行くあてもなく、あの廃屋に隠れ続けた。廃屋は組織には知られていないようだった。こそこそとコンビニで食糧を買い、トイレもコンビニで済ませた。お風呂に入りたかったけれども、我慢した。この先、どうすればいいのか、まったく考えつかなかった。そして翌日、廃屋にわたしがやって来た。
「あっという間に、計画が固まった。わたしには、男たちから巻き上げたアイテムがあった。それを使ってあなたを眠らせ、スマホで組織に通報した」
 目論見通り、わたしは組織によって回収された。
 【わたし】は意気揚々と家に戻った。
 でもーー。
「わたしは安心する事が出来なかった。心の奥底をいつも何かが引っ掻き回していた。わたしはここにいていい、そんな当たり前のことを信じることが、とてつもなく難しかった」
 解決する方法は一つしかなかった、と【わたし】は言った。わたしを完全に消滅させること。それしか自分が心安く生きていける道はない。幸い男たちから仕入れた情報で、猫町ここに来ることは容易だった。あとはわたしを見つけ出し、引き金を引くだけだ。
「ずいぶん、手間取ったけどね」
 【わたし】は冷笑を浮かべた。利己的で、他人には手厳しい、自分でも認めたくなかった自分。でもそれは、まぎれもなく、わたしの中にあるわたしだった。
 わたしが立ち寄った場所を、持ち前の〈リーディング能力〉で辿りながら、【わたし】は追跡を続けた。わたしを殺すためにーー。
 さて、と【わたし】笑いを引っ込めた。
「そろそろこの馬鹿騒ぎもお開き。あなたはいなくなり、わたしは居場所を手に入れる。それでハッピーエンド」
 【わたし】は、わたしを睨みつけた。【わたし】は操縦士を〈リーディング〉した。ヘリコプターを操作できる。彼女は自由になるだろう。
 銃口が残忍にきらめいたようだった。わずか一瞬ののちにわたしの人生は終わり、どこかへ消え去ってしまうのか。
 友だち、学校、母さん、修平さん。退屈でくだらない世界だったけど、これでさようなら。わたしは、なすすべもなく目を閉じた。だからそれから起こったことを、きちんと把握できなかった。
 ぱん、と銃声が鳴り、わたしは身構えた。灼熱の痛みを想像した。風がやみ、世界が静止したーーようだった。

 ふはぁっ。

 つめていた息を吐き出した。わたしは薄く眼を開いた。何が起こったのか、わからなかった。わたしが目にしたのは、【わたし】がヘリポートに倒れ込んでいる姿だった。
 気づくと、まるで舞台袖から登場する真打ちのように、貯水槽の陰から如月メイが歩み出てきていた。ゆっくりと。彼女は、今までそばにいて感じなかった威厳のようなものをまとっていた。妖精の女王が目の前に立ち現れたら、彼女のようなかたちをしているのではないか。
 その手にはーーいましも硝煙を立ち昇らせている拳銃。
「如月メイーー」
 わたしは身じろぎもしないで呟いた。そのときーー。

 またひとつ、歯車が重なった。

「あなたーー」
 絞り出すような口調になった。
 
「あなた、この結末を知っていたのね!」
 
 如月メイはわたしを見つめ返した。何も言わなかった。だけどその沈黙が、何より雄弁に語っていた。
 如月メイが【わたし】の目を盗んで動くことが出来たのは、彼女が今夜ここで起こる出来事を知っていたからだ。彼女は痙攣的能力者できそこないなんかじゃない。真正の、いやこの町の言葉で言うなら、〈有用な〉能力者なのだ。
 おそらく如月メイが自分の能力に開眼したのは、とても早い時期だったのではないか。ただ彼女は、その能力を組織から隠す明敏さを持っていたのだ。
 無謀に思えた脱出計画も、行く先々で都合よくさまざまな物品を手に入れることが出来たのも、すべては〈未来視〉されていたからだ。
 わたしは出会ってからのこの数時間で、如月メイに奇妙なほど親近感を覚えていることに気がついた。友情、というと少し違う。しいていえば、同じ戦場で戦った同志に対する連帯感とでもいおうか。そしてその気持ちが、ここに至っていささかも減じていないことに驚いた。言ってしまえばこれは、【わたし】の物語ではなく、ましてやわたしの物語でもなかった。これは如月メイの物語なのだ。
 如月メイが慎重に、倒れた【わたし】へと近寄った。ううっと、呻き声がして【わたし】が寝返りをうった。
 まだ生きてる!
 安堵のため息が漏れた。
 如月メイの足が、【わたし】の拳銃を遠くへと蹴り飛ばす。わたしは【わたし】の元へと駆けつけた。
 【わたし】は左の肩を押さえて、苦悶の表情を浮かべていた。出血はあまりなく、おそらく命に別状はないと思われた。
 如月メイは、ドクターのところへ行くと、彼女にぎゅっと抱きついた。そして、ゆるぎない事実のようにキッパリと宣言した。
「あのこをちりょうする」
 ドクターはしばらく考え、うなずいた。
 ドクターがしゃがんで、【わたし】の腕を診る。傷口を押さえている手を引きはがし、赤黒くえぐれた箇所を仔細に眺めた。
「は、はっきりとは、いえないけど……か、かすっただけみたいだ」ドクターは顔を上げた。「死にはしない」
 わたしはほっと胸をなでおろした。たとえ自分を殺そうとした相手であろうとも、人が死ぬところを見たいとは思わなかった。
 如月メイが、わたしに話しかける。
「もしこのこがーー」と【わたし】を見て、「なにもしないというなら、いっしょにそとへつれていってもいい」と言った。
 はっ?
 意表を突く問いかけだった。彼女を一緒に連れていく? こういうのはなんて言うんだっけ、そう、呉越同舟? 違うか。
「このこはわたしたちとたびにでる。もうにどとあなたのまえにはあらわれない。あなたはーー」
 いえにかえるの、と如月メイは例の口調で断言した。
 如月メイの言葉に、何故だかわたしはーー無性に寂しくなった。わたしたちはみな、どこからか来て出会い、そして最後には別れなくてはならない。彼女たちともまた。でもそれが今なのだろうか。
「ねえ、あなたたちーーわたしたちは普通に暮らすことは出来ないの」
 外の世界で彼女たちは、どう暮らしていくつもりなのだろうか。
 如月メイが首を振る。頑是ない子どもをあやす母親のように。
「わたしたちは〈反在者〉。ひととはいっしょにいられない」
 胸が締めつけられた。思いがけなく、半身をもぎ取られるような痛みがあった。
「でも」
 わたしは絶句した。
 涙が込み上げてきた。
 如月メイの美しいかんばせが、優しげに、にじんだ。

『だがどんな川もみんな海に続いている。ひとつ残らず。 』

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【七月二十五日 K**新聞 三十一面の記事】
住宅街にヘリらしき影

 二十五日未明、K**市緑区の県立S高校の校庭に、ヘリコプターらしき機体が着陸するという事件が起こった。時ならぬ騒音で目を覚ました周辺住民の一一〇番通報でK**県警が駆けつけたが、すでに機体は飛び立った後だった。現場周辺では、機体から降りたと思われる人影を目撃したとの情報もあり、県警による引き続きの捜査が行われる予定。

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