見出し画像

七月に、五月とわたしと(第二十四話)

【00:39】

 わたしとドクターは階段を昇りきって、最上階のさらに上、屋上の塔屋にたどり着いた。そこは、ペントハウスなどと言うしゃれた空間ではなく、屋外に出入りするための狭い小屋だった。内部は、がらん、としていて物が何も置かれていない。白い壁と、リノリウムの床があるだけだ。

 わたしたちは両手を上に挙げて伸ばし、バンザイの格好をとっていた。後ろに、銃を突きつけた襲撃者がひかえているからだった。

「カギ」

 襲撃者が、抑揚のない声で命令した。

 ドクターが鍵を使って、屋上への扉を解錠する。スチールの扉は無論、普段は施錠されている。が、襲撃者は周到にも、パイロットからキーケースを奪っていた。ヘリポートに素早く出入りできるように、パイロットが塔屋の鍵を常時携帯していることを知っていたようだった。うながされてドクターが、扉を押し開ける。たちまち雨滴が吹き込んできた。

 屋上は、バケツをひっくり返したような有り様だった。風が逆捲き、唸りを上げている。

 猫町で一番背の高い場所は、さえぎる物とてない吹きさらしだった。わたしとドクターは、有無を言わせずに屋外に押し出された。横殴りの雨が、しぶきのように顔に噴きかかる。足下は水びたしで、まるで川の中を歩いているみたいだった。たちまち、ぐっしょりと濡れそぼった。

 屋上は空から見下ろすと、いびつな長方形をしている。塔屋は東南の端にあり、対角線上の北西の端に正方形に区切られた一画があって、そこがヘリポートになっていた。わたしたちは、ヘリポートに向けて歩かされた。風圧が強すぎて、よろけてしまう。そんなことはあり得ないと知りつつも、地上まで吹き飛ばされるような気がする。

 ヘリポートまで伸びるアプローチの左右に、室外機のオバケみたいな巨大な機械や、貯水槽や、「発電設備」とプレートの付いた機械などがあった。「発電設備」の筐体が凹んで壊れているのは、ドクターが破壊したからと思われた。

 到着したヘリポートは、やけにカラフルに見えた。正方形の床面は真っ青に塗られており、その青い地に白で十字形が染め抜かれている。十字形の中央に赤で、大きくアルファベットの「H」が描かれていた。「H」の上に着陸しているヘリコプターは、嵐を避けるためにモンシロチョウが、翅をたたんでじっとしているようだった。

 ドクターとわたしは、ヘリポートの端の鉄柵まで追いやられた。鉄柵の向こうでは、病院を囲む森の木々が強風に煽られて轟々と吠えている。

「こんな中じゃ飛べない! 絶対、落ちるぞ!」

 ドクターが、嵐に負けじと声を張り上げる。おそらくドクターの言うとおりだろう。強風と、まったく利かない視界が、飛行をさまたげるはずだった。

 これから起こることは、如月メイのような能力がなくても予想できた。襲撃者は、ここでわたしを(場合によってはドクターも)始末したあと、ヘリコプターで脱出するつもりなのだ。しかしそれは、ドクターの話しどおりかなり危険な賭けになりそうだ。

 せめてドクターは助けてあげて欲しい、とわたしは殊勝にも願った。如月メイは縛り上げられ、七一三号室に放置されているという。彼女が解放されたとき、ドクターがいないと知ったら、やはり哀しむような気がした。

 束の間、ヘリコプターで飛び立つ自分を空想したことを自嘲せずにはいられなかった。この不恰好な飛行機械が、本当に町から救いだしてくれる命綱だったらよかったのに。ただの鉄の塊ではない、わたしを外の世界へ、自由へと導いてくれる、文字通りの翼。

 今まで生きてきて、たくさんの物語の世界に遊んだ。地上にない空想の世界こそがーー塔晶夫なら〈反世界〉と呼ぶだろうかーーいちばん〈自分〉になれる場所だったのかもしれない。わたしは今度こそ本当に、〈いまここ〉を飛び出して旅立つのだ。地上世界におけるわたしの夢想は、ここで終わるだろう。あるいはーー。

 

 ここから悪夢が、始まるのかもしれない。

 

 わたしは立ち尽くして、あらためて襲撃者を見やる。ぴん、と伸ばされた腕の先には拳銃。その凶器を握りしめている人物を。

 この数分では、とうてい馴れることはない。わたしの脳はいまだに、麻痺してしまったようにフリーズしたままだ。話には聞いていても実際に目にするのとでは違う。自分が何を見ているのか判断が出来ない。いや、判断を拒否しているのだ。

 わたしに銃口を突きつけている者。それはーー。


 ーーそれは、【わたし】だった。


 わたしと同じ背丈、同じ体重、わたしのお気に入りのスニーカーを履いていた。

 その目も、眉も、少し上向きの鼻も口も、すべてがわたしだった。浦沢遠子という人間のステータスを表示したら、そこに記されるべきもの全部が、そこにあった。空間が歪み、忽然と出現した鏡だ。わたしより、わたしらしい、わたし。違うのは、わたしは両手をあげており、【わたし】は拳銃を構えていることだった。【わたし】が、わたしと同じ声で言った。

「さようなら、わたし。あなたはここで消えるべきなの」

 わたしの中でさっき、歯車がカチッと音を立ててはまった音がした。今やすべてが、あるべきところに収まっていた。

「あなたがーー」

 自分の声が、まるで別人のもののように、響く。

「あなたが〈反在者〉だったのね」

正解ピンポーン

 【わたし】が不器用に、ウィンクする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?