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七月に、五月とわたしと(第二十七話)最終回

【一週間後】
 修平さんと顔を合わせるのには、これ以上ないくらい勇気が必要だった。
 それはお馴染みの喫茶店での一場面で、わたしが無事に帰還してから一週間後のことだった。コーヒーの、鼻腔をくすぐる芳ばしい薫りが、こんなに緊張を誘ったことは今までにない。
 店に入るとわたしは、自分がギクシャクとした変な動きになってるなあ、と思いつつ奥へと進んでいった。煉瓦を模した床も、臙脂色のシートも、暖かみのあるシャンデリアも、今日は目を楽しませてくれない。BGMは、誰かが作ったワルツ。わたしは自分が、むかし学校で観たパペット・アニメの『くるみ割り人形』になったように思えてきた。もっとも、できるだけ〈さりげなさ〉を装いたかったわたしは、ショートパンツにTシャツにキャップというラフな格好だった。ドイツの童話に出てくる登場人物には見えまい。
 いつもの四人がけのボックス席に、修平さんが陣取っている。わたしはぎこちない笑みを貼りつけたまま、向かいに腰かけた。
 修平さんが、ノート型パソコンから視線を上げて、あの柔らかい表情になった。きゅっと胸が締めつけられた。
「やあ」
「こんにちは」
 何とかあいさつを絞り出す。
 修平さんが手を上げると、ウェイターさんがサッとやって来る。ブレンドの注文を受けつけると、音もなく去っていった。修平さんが、キーボードをたたくポコポコという音が、訥々としたリズムで続いた。わたしは、よく磨かれた飴色のテーブルに目を落として、黙りこくっていた。彼の顔をまともに見ることができない。
 どちらも口を開かなかった。
 カウンターの奥でお湯を沸かす音やコーヒーを淹れる音が、やけに大きく聞こえてくる。
 天使が何人も通り過ぎた。
 たぶん修平さんは、わたしの「家出」のことを聞いているはずだった。お母さんが相談しなかったはずはない。彼のことだから、「家出」の「理由」も彼なりに察しているだろう。自分がした告白を思い出して、今さらながら顔から火が出る思いだった。
 でもーー。
 少々大げさに言うならわたしは、これからの人生を、力のかぎり精一杯、生きていかなければならない。そういう使命ーー呪縛を負っているのだ。もうひとりの【わたし】のために。勇を鼓して、話しかけた。
「お話は、進んだんですか?」
 わたしはノート型パソコンを指差して、当たり障りのない話題から入ってみる。
「まあ、ぼちぼち、かな」
「結局、高校生の子は、SNSで告白を?」
「いや、自分の口で言ってもらった。その方が、たぶんいいんだ」
 最初から書き直しになっちゃったけどね、と修平さんがわたしを見つめた。口の中はカラカラに乾いていってるけど、必死に言葉を探した。ショータ君も、こんな思いをしてくれたんだ。わたしなんかのために。
 わたしだけ逃げるわけにはいかない。
 絶妙のタイミングで、コーヒーが二つ運ばれてきた。カチャリ、とカップとソーサーが澄んだ音を立てた。わたしは話を継ぐ。
「あの、この間は、変なこと言ってゴメンナサイ。いや、別に変じゃないか。えーっと……」
 シドロモドロになった。
「とにかく、わたしが言いたかったのは、修平さんのことが、とても好きだってことです。たとえ、修平さんが母さんのことが好きでもーー」
 しばらくわたしは口を噤みーー自分が、がらんどうになった気がするーーそしてまた喋り出す。
「でもわたし大丈夫です。大丈夫っていうか……。どんな結果であったとしても、誰かを想ったことは無駄じゃないってことです。たぶん、そんな感じで……」
 何を他人事のようにしゃべっているのだ、わたしは。あの夏の海に沈んでしまいたい。
 修平さんは黙ったままカップを持ち上げて、ひらり、とコーヒーをひと口啜った。その何気ない仕草にわたしは、ああ、やっぱりこの人のことが大好きなんだ、と悟らずにいられない。誤魔化しようもなく。
 カップを置いて修平さんが、口を開いた。わたしの目を見て、はっきりと。「ありがとう」と。いつもの優しい声で。
 そのひと言で。
 わたしの恋が弾けてしまったことが確定した。シャボン玉のように、ぱん、と。
 はじめからわかっていたことだけど、〈知っている〉のと〈識る〉のとではやっぱり大違いだった。ちょうど波のように、哀しみが押し寄せて来た。その波はわたしを取り巻き、じゃぶじゃぶと洗ったあと、引き波が波打ち際の砂を持ち去るように、深い海の底へと大事なものを運んでいった。
 なぜか。
 涙は出てこなかった。
 ショックなのは間違いなかった。失恋したのだから。なのに同時に、不思議と高揚する気持ちもそこにはあるのだった。これでようやく前に進める、といったような。
 わたしは心もち余裕を取り戻した。こんな質問ができるくらいに。
「お父さんになって、くれるんでしょ? 修平さん」
 修平さんは、わたしの言葉に少しだけ、うろたえたようだった。そしてふと眉をひそめて、わたしに訊いた。
「きみ、浦沢遠子さんだよね」
 わたしはーー会心の笑みで返したのだった。

『どっちがのこって どっちがでたか』
『そいつはしぬまで わからぬなぞさ。』

□□□
 こうしてわたしの物語は、再び始まった。
 それからさき、如月メイや【わたし】に出会うことは二度となかった。だけど わたし は別だった。 わたし にサヨナラを言う方法はいまだに発見されていないーー当り前だけど。

                                ーー終幕カーテンフォール

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