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空想書店

★読売新聞 2016年3月13日(日)朝刊 掲載原稿

 目的を決めずに書店に入るのが好きだ。平積みになっている新刊本や話題本を横目に奥へ進み、本の森の中で呼吸するように背表紙をそうっと辿っていく。昨日でもなく明日でもなく、今の自分が求める本を、何千冊、何万冊の中から探す。それは旅に出たときの心地とよく似ている。普段より周りの景色がくっきり見えて、見えにくくなっていた心にも気付くことができる。
一生のうちに何冊、本当に「自分に属する」本と出会えるのだろう。本の中の一節や印象深い景色は、体験して得た記憶と同じくらいの力で心を支えてくれる。
 私にとって最初の特別な一冊は、湯本香樹実さんの『夏の庭』だ。初めて手に取ったのは中学生の時。だが、この本が本当に私自身のものになったのは高校三年生の夏。その間に同居していた祖父が亡くなり、母が長期入院し、それまで在った家族の形が少しずつ変わっていた。私は、学校と予備校と母の病院をめぐりながら大学受験に向かっていた。
 その日、何気なくこの本を開いたのだと思う。すると、ある場面が心に焼きついた。老人ホームの場面で、主人公の少年達が入居しているおばあさんを訪ねていく。少年達がホームを辞すとき、振り返ると夕陽の中でおばあさんがいつまでも手を振り続けている……。その光景がまるで自分の記憶にある情景かのように胸に沁みて、鼻の奥が痛くなった。人は、どれほど願ってもいつか別れの時が来る。だからこそ繋がりあえる時間が尊く、目の前の光景を愛しく思う。本を読みながら、今自分が生きていること、家族への思いが込み上げてきた。そして、これから先、きっと何度もこの本を開くだろうと思った。開くたび引力を持つ箇所は変わっても、同じように私を引き上げ、前へ向かう力をくれるだろうと。
 自分の心と深く結びつく本と出会うこと。それは、奇跡だと思う。けれどこの世界には、自分のための本が必ずある。私が書店を開くなら、旅するような心地で本棚を辿ってもらえる店がいい。静かでゆったりとしていて、穏やかな光が降り注ぐ。旅先で、ガイドブックには載っていない自分だけの景色を見つけるように、心が求める特別な一冊と巡り会う。深呼吸しながら本と向かい合える書店。

●イチオシの一冊

『なつかしい時間』(長田弘著、岩波新書、800円)詩人が17年にわたり語ってきた清冽な言葉の数々。風景や時間を紐解きながら目を上げて遠くを見ることの大切さを教えてくれる。瑞々しい感受性を蘇らせてくれる一冊。

●お勧めの四冊

『ルリユールおじさん』(いせひでこ著、講談社、1600円)美しい水彩で丁寧に描かれた、パリの街で生きる製本職人と少女の物語。本への愛情と最後の一文に胸が熱くなる。

『父の戦地』(北原亞以子著、新潮文庫、438円)父が戦地から3歳の著者に送った70通の軍事郵便の絵葉書。現地の風俗をいきいきと描く父の愛情に戦争のむごさが迫ってくる。

『李歐』(髙村薫著、講談社文庫、714円)虚無を抱えた主人公が同い年の殺し屋と出会う。二人の視線の彼方に広がる大陸の景色に心が躍る。桜の季節に再読したくなる一冊。

『群島−世界論』(今福龍太著、岩波書店、5200円)世界を群島として捉え、国境にとらわれず、海からの眼差しで視る。広大で詩的なイマジネーションの海をのびやかに泳ぐ。

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