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砦の恐怖(前編)

1、
「ふん、こりゃあ、負け戦だな」
 傭兵隊長の、傍若無人な言辞を諫める者とていなかった。状況は、至極もっともだったからである。
「まったく、蟻の這い出る隙間もないとは、この事だ!」
 隊長は尚も云い募った。これもまた事実であった。辺りには絶え間なくドロドロという太鼓の轟が満ち、縦長の狭間から宵闇を覗くと、砦の周りは夥しい数の松明で埋め尽くされているのだった。
 ンチャナグァンの緑なす大密林に、不意に姿を現す岩山のごとき威容が、ツィタ砦である。いま砦の望楼には、元々のイグソルウト人守備隊の幹部のほか、支援の傭兵部隊の隊長、副隊長、それに成り行きで居合わせる次第となった流浪の戦士タルスの面々があった。
 大河ヴォル河畔の熱帯雨林に屹立する砦は、かつて有尾人の聖地であったとか、悪霊に生贄を捧げる祭壇の上に造られたとか、怪しげな由緒に包まれているが、現在はイグソルウト人ベリテ藩国の出城になっている。
 砦から、南大陸北辺のレンス海までの間の密林には、ベリテ藩国に帰順しない蛮族どもが蟠踞ばんきょしており、いまや大同団結したその部族集団の軍勢にツィタ砦は取り囲まれているのだった。
 蛮族ブルガ、と総称される敵勢は、複数の部族からなる、頭の左右を剃り上げた短身矮躯の戦士たちで、精強無比なうえ残忍なことでも知られていた。捕まえられれば、生きたまま頭の皮を剥がされるという。尤もそれは、イグソルウト人兵士が散々っぱら非道を働いてきた報いであることを、タルスは承知していた。
 脊梁山脈の麓に興った紅毛碧眼の白人種イグソルウトの帝国は、北上して密林に侵入し、森を焼き、蛮族ブルガを先祖代々の土地から追い出した。ベリテ藩国の砦は蛮族ブルガが反撃の狼煙を上げた、最前線にあるのだ。
「こんな修羅場に招いてすまなんだなぁ」
 隣の橄欖オリーブのような肌の黒人が、タルスに囁いた。表情に乏しく、あまり済まなそうに見えないが、実際はかなり恐縮しているらしい。
 いや、とタルスは事も無げに答える。
「星回りが悪いのは俺の方なんだろうよ、レセト副長どの」
 傭兵部隊の副隊長レセトとタルスが出逢ったのは、ベリテ藩国の都邑の酒場で、あなぐらめいたその店で意気投合した挙げ句、北上する部隊の道連れとなった。吸血蟲が媒介する熱病に不覚にもタルスが罹ると、放り捨てられてもおかしくないのに、荷馬車の上に載せて砦まで運んでくれたのだった。
 しかし自分で云った通り、運が良かったのか悪かったのか。数日後、タルスが本復するなり澎湃ほうはいと戦雲が巻き起こり、砦攻めが始まったのだった。
「そなたらを呼んだのは他でもない」 
 守備隊の司令官が一同に話し始めた。司令官は、軍人というより能吏のような風貌のイグソルウト人で、青銅の小札こざねに被われた甲冑姿は、あまりしっくりきていなかった。
「聴け。蛮族ブルガどもの包囲網を破るのは容易ではあるまい。無論、正々堂々、勝負するにやぶさかではない。神意は我等にある。ーー軍神ザールよ照覧あれ! しかし難事に変わりはないし、もし仮に我等が敗れれば蛮族ブルガどもが帝国に類を及ぼそう……」
 それはどうかな、とタルスは胸の裡で呟く。彼の反乱者たちには、帝国がこの砦から出ていって二度と戻って来ないならば、住み慣れた密林から侵出してまで帝国に攻め入る理由があると思えなかった。凡ては帝国が領土的野心を諦めるかどうかにかかっているに違いない。そして帝国が諦めることはないのだ。
「そこで、次善の策としてそなたらに、砦の探索を願いたい」
「砦の探索だと?」
 傭兵隊長エデの双眸が煌めいた。顔中をこわい髭に覆われたこの大柄な西部プント人は、見た目と磊落な言動によらず智略家である。勇猛果敢な傭兵部隊が実力を十全に活かせるのは、この隊長の頭脳あってのことだった。
「うむ、そなたらも砦の奇妙な由来は聴いておろう。大半は根も葉もない蜚語の類いだが、中には真も混じっている」
 司令官の話によれば、砦が太古の遺跡の上に造られているのは本当のことだという。そして遺跡を接収し砦を初めて建てたイグソルウト人将軍は、遺跡の守り人の蛮族ブルガからひとつの話を聞き出していた。すなわち、遺跡からヴォル河畔に向けて、抜け出る隠し通路があるというのだ。
「その守り人だか呪い師だかは、通路を〈悪霊のあぎと〉などと云って何やら恐れていたそうだが、そんなものは野蛮人の戯言にすぎん。将軍は中を詳しく調べることはしなかったが、入り口は確認した。方角からすればそれは間違いなく、ヴォル河に向かっている。そなたらには、その隠し通路を探索し、いざというときの退路を確保してもらいたい」
 こいつはーー思いもよらぬ展開だ、とタルスはニヤリと嗤った。どう云い繕ったところで、逃げ道を見つけておきたい、という司令官の本音は丸わかりである。
 どうせこのままでは良くて討死、悪くすれば嬲り殺しが精々だ。それが首尾良く、危地から脱出する目が生まれるかもしれないのだ。
 傭兵隊長エデと副隊長レセトが目配せを交わす。イグソルウト人守備隊には聖なる任務かもしれないが、傭兵たちは命あっての物種だ。
「我等は砦の守りを固めるので手一杯。そなたらの部隊から探索隊を供出してもらいたい」
 そう云い置くと司令官は、ガチャガチャと脛当を鳴らして去っていった。
 
2、
「では、此方にいらしてください」
 イグソルウト人従者の案内で向かった面子は、副隊長レセトとタルス、それに傭兵部隊から小兵のコス人が加わった三人だった。さすがに隊長自身が入るのは指揮系統上まずい、とレセトもタルスも嗜めた。というよりは、巨漢のエデが入る隙間があるか分からないためだ。
 一方、タルスは役目にうってつけと云えた。余所者の上、人間ゾブオンですらない。タルスはルルドとモーアキンの間の子だった。蛮族ブルガですら、一応は人間ゾブオンと認められているのに。守備隊からすれば此れ程死んでも惜しくない駒もあるまい。
 尤もタルスとて、ただの捨て石になるつもりはない。種族の特徴を反映し、手足は短くずんぐりむっくりで不恰好だが、発達した筋肉の持ち主のタルスは、膂力にも、体術にも一応の心得はあった。
 ツィタ砦の建屋は丸太と石を組んだ武骨な造りだった。砦はいま、跳ね橋も明かり取りも閉ざされ、甲羅に閉じ籠る老いた亀のように身構えている。内部はいがらっぽい松明の煙が充満し、其処に雨季のじっとりとした湿気と甘ったるい果実臭が忍び込んで、混じりあっていた。
 だがタルスは砦の空気の中にもう一つ、別の臭いを嗅ぎ取っていた。守り手たち体臭、躰から滲み出る隠しようもない恐怖の臭いを。
 タルスの聞いている限りでもすでに、数名の守備隊員が砦から姿を消しており、表立っては云わないが傭兵たちは彼等が敵前逃亡したと見なしていた。尤も、逐電したところでいずれ蛮族ブルガに捉えられ、頭の皮を剥がされているであろうというのが、専らの見立てであったが。
 地下の食糧倉庫まで急な階段を下ると、従者は人の気配を確認してから、空の樽を退けた。そして奥の石壁を押した。
「こいつは驚いた……」
 コス人傭兵が、下手な口笛を吹く。
 滑らかに動いた石壁の向こうに、もう一つ、部屋が出現していた。従者が松明を置くとぼんやりと全体が見渡せる。何もない部屋で、中央に、さらに基部に向けて降りる口があるだけである。方形の井戸のような竪穴には黒黒とした闇溜まりが湛えられ、ふと蛮族ブルガの云った〈悪霊のあぎと〉という詞が浮かび、タルスはゾッと全身が総毛立った。
「私はここでお待ち申し上げます」
 従者に促され三人は、竪穴を覗き込む。後からつけたとおぼしき縄ばしごが、底知れぬ闇に溶け込んでいる。
「よし」
 まず松明を落として、空気に問題がないことを確かめた。炎の大きさで、思ったより深くはない、と見当がついた。身軽なコス人が先頭で降りた。傭兵は下に着くと合図に縄ばしごを揺らす。レセトが続き、タルスがしんがりだった。
 縄ばしごを降りきるとそこから横穴が延びていた。
「確かに河岸方向だが……」
 レセトが地上の位置関係を浮かべて呟く。横穴は、立ったタルスの頭がギリギリ天井に着かないくらいの高さで、やはり隊長は来なくて正解だと一同に忍び笑いが起こった。気を引き締め直し、先程と同じく、コス人、レセト、タルスの順で隧道のような通路を歩き出す。松明が先頭としんがりの二つきりなのが不満だが、物資が払底していると云われれば返す詞もない。通路は爪先下がりに傾斜しているようだった。
 歩くにつれてぼんやりと照らされる周囲は、明らかにそれまでとは様式の違う石積みであった。一つ一つの石が大きく、しかもその組み合わせ方は複雑精緻だった。蛮族ブルガはおろか、たとえイグソルウト人の文明をもってしても可能とは思えない代物だ、とタルスは唸る。
 空気は黴臭く、その中に生き物の気配の残滓を感じた。鼠や地虫の類いならば問題ないが、もっと凶暴な生き物であれば、用心が要る。抜け道の先に何がいるのか判ったものではない。
「うっ!?」
 先導するコス人が、頓狂な声を挙げた。タルスとレセトは、瞬時に身構えつつ、松明の灯りで浮かび上がったそれを同時に見た。
「これは……」
 さしものレセト副長も絶句している。
 細長い通路の中ほどに、無造作に投げ出されていたのは、動物の腕ーーいや、前肢だった。それは、赤黒くて硬そうな毛に被われていた。
「猿の足ーーか?」
 コス人が疑わしげに述べる。確かに、すがめて見たタルスには、猿の右前肢の、肘から先が転がっているように思えた。それも、古いものではない。血などは見当たらないが、朽ちているでもなく、肉があって新鮮に見える。
「何だってこんなところに、こんな物が?」
 コス人が、慎重に近づく。
「気をつけろ。何かおかしいぞ」
 レセトが警告する。尤もな詞である。秘匿され封印されていた筈の通路に、動物の、それも躰の一部だけが残されている。こんな無気味なことがあろうか。
 と、そこで、信じられないことが起こった。〈腕〉が、毒蛇のごとき素早さで身をうねらせ、コス人の脚に襲い掛かったのだ!
 

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